●ぼくはゲームをまったくやらないのだが、自分が設定したキャラクターがゲームのなかで勝手に人間関係をつくるという「トモダチコレクション」というゲームがあるらしくて、テレビを観ていたらそのCMをやっていて、優香が、ゲームのなかに設定された自分と、ゲームのなかの船越栄一郎とが結婚したのを見て、「あー、やっぱりそうだよなー、優しいもんなー」とか納得したような感じのことを言っていて、「おめでとう、わたし(「お幸せに」だったかも)」とか言って、この感じ(この納得=親しさと、この乖離との混じり具合)って、昨日、一昨日に書いた、桜金造の話に出てくる分身の感覚にちょっと近いんじゃないかと思った。いや、そもそもゲームをまったくやらないし知らないので、すごくいい加減な当てずっぽうなのだが、ゲームのなかにいる、見かけも性格もかなり忠実に設定された自分が、しかし自分の意思とはまったく関係なく勝手の動くのを見るのって、ゲームのプレイヤーとして、そのゲームの設定に(一見主体的に)参加するというのと、まったく違った気持ちの悪い面白さがあるのではないだろうか(自分ではないキャラクターに同一化するのではなく、自分が自分から分離する)。そもそもその自分は、現実とは違う架空の世界で動いているのだから、現実の自分の行動のためのシミュレーションになるというような功利性からも切り離されている、しかしそこにいるのはどう見ても自分だ、というところが面白く、また、気持ち悪い気がする。自分が自分の手から切り離される、この乖離の感覚はずこくリアルであるように、ぼくには思われる。その行動は、自分のことだからとってもよく分かるのだが、でも、それは決して自分の意思によるものではない。その自分は自分にとって誰なんだ、みたいな。