●良く晴れて暑く、強い陽射しが照りつけ、緑が濃い。たったこれだけのことで、ぼくはひどく昂揚するし、文句のつけようもなく幸福だ。そういう日がやってくるたびに、はじめてそのことを知ったかのように、繰り返し、改めてそう感じる。しかし、実は一年のうちでもそんな日はそうしょっちゅうあるわけではない。特に今年は、5月に一日も5月らしい天気の日がなかったし、なかなか夏にならない。だが、今日はそんな日だった。この前は、我孫子に行った日が、そんな日だった。
ぼくは、強い光のもとにある植物のある種の状態を目にすると、それだけですごく興奮する(その状態を言葉で描写するのはとても困難なのだが)。そして、ぼくが絵画でやりたいのは、そのような状態を、キャンバスと絵具において再現するということ、ただそれだけなのかもしれないとさえ思うことがある。何故それが絵画なのか。何故か分からないが、そのような状態を再現出来るのは絵画だけだと思うのだ。それはつまり、何人かの画家の作品を観る時(その時にだけ)、ある種の植物の状態を見た時に感じるのと同じ質の興奮を感じる、ということだ。それは必ずしも、植物を描いた絵に限るというわけではない(絵画というのは本来、具象だろうが抽象だろうが、根本的に抽象的な存在なのだ、世界と絵画とを関係づけるもの、そこにある木の葉の緑と、キャンバス上の絵具の緑色とを関係づけるものは、視覚的な類似ではなく、それ自体としては不可視である抽象的な力の関係なのだ、線と、それによって線描されたものとの関係だって、「見かけ」ほど単純ではない)。
最近、屋外でスケッチをしたいという気持ちが段々と強くなっている。ぼくの作品は、ぶらぶらと目的なく散歩することを繰り返し、その時の記憶が一定量蓄積されることによって動き出す。だから具体的なモチーフがあるわけではないし、何かしらの具体的な方法論があるわけでもない。しかし具体的な手順というのはある。今まで、二十年以上やってきた、絵を描く時の様々な手順の蓄積と、散歩の記憶の蓄積とが、なにかしらの形で結びつきそうな予感が生まれた時に、作品が起動しはじめる。だから、その記憶の補助のような意味でカメラを持ち歩くことはあっても(しかし最近ではカメラも持たないことが多い)、スケッチブックや絵具などを持って散歩に出ることはなかった。スケッチブックを持ったとたんに、目的のないものであるはずだった散歩に、モチーフを探すため、スケッチをするため、という目的が生じてしまうのが嫌だったからだ。
しかし、今日のような日、河原をぶらぶら歩いていると、「ああ、これが描きたい」と思うものにぶつかる。「これ」とは何なのか、その植物の形状なのか、色彩なのか、葉に光が飛び跳ねている様なのか、それともそれが生えている土地の状態や傾斜の具合の方なのか、もっと抽象的な「生い茂る」という力なのか、あるいは緑のなかに浮遊している花の赤い色の、その色彩の位置を持たなさそのものを捕まえたいと思っているのか、そこをすっと横切るトンボの飛行の運動性を捉えたいのか、その全てなのか、あるいはもっと別の何かなのか、それは描いてみなければ分からない。屋外で、その場で描くというのは、まさにそれを探ろうとすることであり、あるいは、描きたいと感じた「これ」の前で一定の時間留まるということであり(散歩をしていて最も困難なのは、理由もなくそこに長く留まるということだ)、「これ」のただなかで手を動かすということだろう。「これ」の前に留まって手を動かすことで、そこをただ通り過ぎるよりは多くのものを受け取ることが出来るのではないだろうか。
とはいえ、その場で描くからといって、単純に目の前の見えるものを描き写すのではない。それでは絵画は世界の上っ面を撫でることしか出来ない。絵画は抽象的な構成物で、世界と絵画とはそれぞれに自律した別の系であり、それを関係づけ共鳴させるのは、視覚的な類似性ではなく(勿論、それは助けにはなるのだが)、視覚と手作業とによって捉えられた抽象的な関係性であろう。そしてそれは、描くという行為のなかで探られるしかない。屋外のスケッチのように、「物を見て描く」ことをずっと遠ざけていたのは、すぐそこに実物が見えてしまうからこそ、そこに「見えているもの」に過剰に引っ張られ、頼ってしまいがちだからだと思う。見えていることの確かさと、見えてしまうことの罠とはうらはらで、つまり実物が見えている環境で描くとき、描くという行為はより過酷で厳しいものになってしまう。でも、そろそろ覚悟を決めないといけないのかなあ、と。
だが、こんなことを考えていると、増々、現代のアートの動向から遠ざかる、というか、落ちこぼれるしかないという思いが強くなる。なにしろ、木や草や地形を描くことにしか興味がないのだから(ただ、繰り返すが、ここで「描く」こと、つまり、世界と絵画とを関係づけるということは、そんなに単純なことではない)。でもそこは、開き直って突っ切るしかないんだと思うけど。
●テレビをつけっぱなしにして別の用事をしていた。テレビの方から、誰かが黒柳徹子のモノマネをしている声が聴こえてきた。と思ったら、宮里藍がインタビューを受けていた。
●引用、メモ。ドゥルーズフーコー』より(7月29日のつづき)。権力(ダイアグラム、戦略)と、それを現実化する知(言表可能性と可視性)と、その外(思考、抵抗)。
《したがってどんな力もすでに関係であり、すなわち権力なのだ。つまり力は、力とは別の対象や主体をもつことはない。私たちはそこに、自然法への回帰をみてとったりしないようにしよう。なぜなら、法とは一つの表現の形態であり、〈自然〉とは可視性の形態なのだから。そして、暴力とは力に付随するもの、力から結果するものであって、力を構成するものではない。フーコーは、ニーチェにもっとも近い(そしてマルクスにも)。ニーチェにとって、力の関係は、奇妙にも暴力を超えてしまうもので、暴力によって定義されることはないのだ。つまり、暴力は、身体、対象、あるいは限定された存在に関わり、それらの形態を破壊したり、変更したりするが、力の方は、他の力以外のものを対象とすることはなく、関係そのものを存在とするのだ。》
《だから、権力関係は何らかの審級に、局限しうるものではない。それは、地層化されないものの実践として、一つの戦略を構成し、「無名の戦略」は、可視的なものと言表可能なものの安定した形態をのがれてしまうのだから、ほとんど無言で盲目である。ダイアグラムが古文書と区別されるように、戦略は地層と区別される。戦略的環境あるいは地層化されないものを定義するのは、権力関係の不安定性である。だから、権力関係は、知られるということがない。ここでもまた、フーコーにはいくらかカントに似たところがあって、彼にとって、純粋に実践的な限定は、どんな理論的、認識的限定にも還元できないのだ。確かに、フーコーによれば、すべては実践的である。しかし権力の実践は、どんな知の実践にも還元できないのだ。》
フーコーは、言表の固有性として「規則性」を引き合いにだす。ところで、フーコーにとって規則性は、実に厳密な意味をもっている。それは、特異点(規則)をたがいに結合する曲線である。厳密には、力の関係は特異点を決定するのだから、ダイアグラムはいつでも特異性の放射そのものにほかならない。しかし、隣接点を移動しながら、特異性を結合する曲線は、これとはまた全然別のものである。アルベール・ロトマンは、数学の場合、微分方程式において、確かに補完的ではあるが、二つの「全く異なる現実」が存在することを示した。つまり、ベクトル場には特異点が存在し配分されるが、特異点の隣接においては積分的な曲線の形態が存在するのである。ここから、『考古学』の依拠する方法が出現する。つまり、一つの系列は別の特異点の近傍まで延長され、そこに新しい系列が発生し、最初の系列とともに収束し(同じ族に属する言表の場合)、あるいは発散する(別の族の場合)。まさにこのような意味において、一つの曲線は力の様々な関係を、規則化し、整列させ、様々な系列を収束させ、一つの「普遍的な力線」を引きながら、力の関係を実現するのだ。フーコーにとっては、曲線も図形も言表なのだが、それだけでなく言表は、様々な種類の曲線であり図形なのだ。》
《言表は、決してそれが指示するものや、それが意味するものによって定義されるわけではない。私たちは、次のことをこそ理解しなくてはならないのだ。言表は、特異点を結びつける曲線である。》
《言表の曲線は言語のなかに、情動の強度、力の差異的な関係、権力の特異性(潜在性)を統合する。しかし、そのとき、可視性もまた別の仕方で、これらのものを光のなかに統合する。だから、統合の受容的な形態としての光は、自発性の形態としての言語のたどる道に比較されるような道、しかしこれとは対応しない道を独自に作らなければならない。そして、二つのあいだの「無関係」のまっただなかで、二つの形態の関係は、不安定な力の関係を固定し、拡散を局所化し、しかも包括し、特異点を規則化する二つの方法になるだろう。なぜなら、可視性の方は、歴史的形成の光のもとで光景を構成するのだが、この光景と可視性との関係は、言表と、言いうること読みうることとの関係に等しいのだ。》
《おそらく権力は、もし抽象的に考察されるなら、見ることも話すこともない。権力は、その通路の網目、その数多くの巣穴によってのみ、それと認められるもぐらである。それは「数えきれない点から行使され」「下からやってくる」。しかしまさに、それ自身は話すことも見ることもしないで、ただ見せ、話させるのである。》
《見ることと話すことが外部性の形態であるとすれば、思考することは形態をもたない外にむけられている。思考すること、それは地層化されないものに到達することである。見ることは考えることであり、話すことは考えることであるが、考えることは、見ることと話すことのあいだの間隙、分離において行われる。》
《思考することは、可視的なものと言表可能なものとを統一する美しい内面性に依存するのではない。思考は、間隙を穿ち、内面を圧し解体する一つの外の侵入によって実現されるのである。「外が穿たれ、内面を吸引するとき……」つまり、内面は始めと終わり、一致させ、「全体」を形成する能力をもつ一つの起源と一つの目的地を前提とする。しかし、環境と中間しか存在しないなら、言葉と物が決して一致せず、環境によって切り開かれるなら、それは、外からやってくる力、動揺や、攪乱や、再編成や、突然変異の状態でしか存在することのない様々な力を解き放つためである。サイコロの目だけが真理である。考えることは、賽の一躑であるからだ。》
《外の力が私たちに告げるのはこのようなことだ。変容するのは、決して歴史的で地層化された、考古学的な構成物ではなく、様々な構成力なのである。それは外からやってきて、他の様々な力と関係する(戦略)。生成、変化、突然変異は、様々な構成力に関連するのであって、構成された形態に関連するのではない。(略)まさに問題になっているのは、概念的であれ実在的であれ、知覚可能であれ言説可能であれ、人間的な構成物ではない。人間の構成力が問題になっているのである。この構成力は他のどんな力と結合するか、その結果出現するのはどんな構成物か、ということである。》
《一つの力が、他の力から影響され、他の力に影響するのは、いつでも外からである。影響し影響される能力として、権力は、関係する力によって異なる仕方でみたされる。力の関係の総体を決定するものとしてのダイアグラムは、異なる関係、異なる構成に入ってゆくことのできる力を決して消耗してしまうことはない。ダイアグラムは外から出現するが、外はどんなダイアグラムとも一致することがなく、たえず新しいダイアグラムを「抽出する」。こうして外はいつも未来の開放であって、それにとっては何一つ終ることがない。何一つ始まったこともなく、すべては変身するからである。(略)そのうえ、権力の決定的言葉とは、抵抗が最初にある、ということである。権力関係はまるごとダイアグラムのなかに収まっているのに対して、抵抗は必然的に、ダイアグラムを出現させる外と直接的な関係をもつからである。だから、社会的な領野は戦略化する以上に、抵抗するのである。そして外の思考は抵抗の思考となる。》