●引用。メモ。樫村晴香佐々木中。(息子あるいは娘として、親に「似た者」としての)私、父、カテゴリー、系譜、正統性、根拠律、問い(叫び)。この二つのテキストをあわせて読むことはとても重要なことだと思われる。
樫村晴香「Quid」
《父から与えられることのなかった、父の言葉。それは「私は何か」という言葉である。それは「私は何か」という問いへの答であり、その答には「私は何か」と書かれている。機械「真悟」は少年「悟」に、「私はあなたを愛しています」という少女の言葉/文字を伝達しに帰ってくるが、その還帰自体が、少年の生み出した「真悟」という意識、すなわち「私は何か」という問い、の答であり、しかも少女は、本当はこの言葉を発する前に消滅しており、この言葉は、少年が彼女に向けて発した、彼自身のものである。》
《この言葉は、外傷としての誕生の場所、外傷の視覚から到来し、それは見開かれた目、世界のイマージュとして到来した私自身、そしてまた私自身であるこの世界の視像が、一瞬そこから身を起こし、他者に向けて、「それは何か」と、叫びかけようとする動きである。それは言葉の手前で、世界そのものが痙攣し、「何なのか」と手を伸ばして、人間になろうとする瞬間だ。それが父の前で発せられ、父の姿が発するなら、「何なのか」という叫びは、「それは父である。それは私でありお前ではない、お前は真悟である」という声を聞くだろう。叫びは「私は父である。父は私ではない」という答を生み、世界と私は分離するだろう。そして声は分化し認識の道具となり、目は世界そのものから世界を見る意識の穴へと縮小するにちがいない。》
《だが他者に向けて立ち上がる一瞬の動きが、父の不在を巡るなら、声は「それは何か」という叫びにとどまり、意識は強度として、永遠に「それは何か」という問いを巡る。その叫び、強度は、未分化な世界そのものの意識であり、何も知らず、何も思い出さず、何も考えることができないが、しかしそれは、そこから分離し、どこかに行こうとする力動、何かに向かおうとする力動だけはもっている。それゆえ少年の意識である機械「真悟」、すなわち世界そのものであり、地球であるその意識は、何も考えることのできない文字として、少年のもとに帰ってくる。だがそれが、闇雲にどこかに行こうとするあてのない強迫に従うのでなく、ちゃんと少年のもとに帰ってきたのは、少年が少女という、自己の同類を得たからである。「それは何か」に滞留する少年の叫びは、その未分節な意識をこの世界の側でそれとして表象し、体現する、意識のない少女から、彼自身に返される。その時、「それは何か」は、「私は何か」へと、わずかに成長する。それは宛先のない強迫が、同類をはじめて見つけ、彼自身の眠りを眠りつつも、彼自身ではない者から返されることにより、自己の発信地を見つけることの効果である。しかしそれでも、その意識は「私は何か」にとどまり続け、そこから解放されることはない。つまり、確かにラカンの言うように、言葉が視覚の場所から到来し、文字であり、手紙であるなら、それは「私は何か」だけを語り、差出人のもとに回帰する。》
佐々木中『夜戦と永遠』第四一節
《個々の父親は、「至高者=主権者」の、つまり<絶対的父>の、代理ですらない。それは、「論理的中継点」であり、<絶対的準拠>たる<神>に自らの子が同一化しないようにするための「防波堤」にすぎない。論理的中継点である以上、父親は子に「論理的に語る者」でなくてはならない。そして、その語りにおいて子に「お前は全能ではない、わたしも全能ではないのだから」と---危うくも---語りかける者であるということになる。》
●第四二節
《だからこういうことになる。子どもは、まず誰かの娘であり、息子であることを「発見」する。その誰かに<鏡>に映った姿のように「似ている者」であることを発見する。これは親が子に似ているということ以上の、つまり「人間」という同じカテゴリーの内部において「似ている」者であることを意味している。つまり人間のなかの「一」であり、「あの者」の「子」であると、自らをすでに分類されたひとつの「項」として発見するのだ。》
《わたしは人間だ、なぜってこのわたしは、人間に似ているのだから。「似た者が似た者を産み出す」。<鏡>に映えた「何かに似た」わたしのこの姿は、奇妙な死の影を纏いながら根拠律へ、分類の秩序のほうへと無限に差し招くのだ。この「似ている」ことを可能にするイメージの力によって、人はこの「死の姿」であると同時に「象徴的な位置」でもある何かに同一化する。そして「子」となったその者は口にするだろう。「何故」と。あるいは「地獄の問い」である「何故法なのか」と。何故法なのか。何故わたしは人間であり、女あるいは男であり、あの男を父親として、あの女を母親として、このような境涯に身を委ねなくてはならないのか。<鏡>の二つの言明。「これがおまえだ」「しかしこれはおまえではない」という禁止の、法の言葉によって、子どもは自らの姿を受ける。そしてこの「法の姿」を見てこう反問するのだ。何故、これがわたしなのか。何故、そう「決まっている」のか---「何故、法なのか」。<鏡>としての根拠律=因果律は「『何故法なのか』にはじまる因果性の制定された表象の源」である。これに準拠することにおいてしか、「正統性」は可能ではない。つまり「何故」に対する答えは。いわく「正統性とは、ある社会において『何故法なのか』に答える言説、この答えを制定する言説であり、そうすることで、正統性はわれわれが法と呼ぶ一連の効果を『権威づける=可能にする』---まさに適切な言葉です---ということができます。その下には人間が因果性、つまり理由=根拠の絆を思い浮かべるためのあらゆる問いが存在するのだ、と気づかれることでしょう」》