●『ジョジョ』が面白過ぎてとまらない。かなり慣れてきたとはいえ、絵への抵抗はまだかなりあって、なかなか進まないのだが。今、アトム・ハート・ファーザーまで。しかし、第四部のはじめの方と比べて、絵の感じはかなり変わってきてる。線が様式化されて、ちょっと整理されてきて、多少見やすい感じになっている。
●ちょっと前に、リーゼントに学ランの男と、頭にギザギザのヘアバンドをした露伴先生と呼ばれる男が出てくるやおい本(特にハードな絡みとかはない)を見せてもらったのだが、キャラを知らないので何のことだかさっぱりわからなかった。『ジョジョ』に岸田露伴(また間違った、岸辺露伴だ)が出てきて、ああ、あの時のあれは、これだったのか、と思った。
●『ジョジョ』第四部では、舞台となる杜王町の地図が頻繁に出てきて、エピソードのあった場所がその地図にマークされる。ぼくは子供の頃から、現実の地図にはあまり興味ないのだが、「お話」に地図がついていると、なぜかすごく興奮したことを思い出した。アーサー・ランサムの本には必ず地図がついていたし、天澤退二郎の童話にも地図がついていた。佐藤さとるのコロボックル物にもついていた気がする。あと、小学校低学年のときに読んでトラウマのように記憶に刻まれている『午前二時に何かがくる』という本(同じ本を何度も図書館で借りて、何十回も繰り返し読んだ、本屋ではみつけることはできなかった、確か、佐野美津男という人が書いていた)にも、地図があったと記憶している。架空の地図に興奮するというのは、自分のいる「ここ」と「向こう側」とがつながっている感じがするからなのだろうか。
●途中で何度が、いわゆる「ジャンプ的」な、単純な対戦モノになってしまいそうで、退屈しかける場面もなくはないのだが、そのつど、すごいアイデアがバーンと現れて驚かされ、その世界に引き戻される(単純に、アイデアの豊富さという次元だけでも物凄い)。基本的に、対戦モノのフォーマットで物語は進行するのだが、それが決して「どっちがより強いか」とか「俺が一番強いんだ」という話にならないところが面白い。対戦モノの形をしていながら、勝ち負けが問題なわけではない。それを支えているのがやはりスタンドという概念で、スタンドという概念のもつ潜在的な展開可能性にはすごいものがある。
あと、スタンドという概念は、人間と空間との関係のしかたのバリエーションの幅をおおきく広げるのだと思う。ねずみがスタンドをもつ話とか、「重ちー」のハーヴェストとか、すごく面白い。露伴先生の、人間を本にしてしまうやつも、康一は普通に本になるのに、億泰はレシートみたいな巻紙になるところとか、面白い。こういうところでもちゃんと、キャラクターが描き分けられている。あと、やはり、主人公のもつスタンドが「治す」スタンドだということの持つ潜在的な展開可能性の大きさは驚くべきものがあると思う。これは設定というより、作品の根幹にかかわることだと思うけど。
●ただ、これは掲載誌がジャンプであることの制約でもあるのだろうけど、物語が常に単線的な進行で、つまり主人公たちと、他の誰か、という一対一の対戦(必ずしも対戦ではないので、対面というべきか)として物語が進行して、複線的な展開にはならない。おそらくこのへんに、単調になってしまいがちな原因があると思うのだが、しかし、細かいエピソードがいくつも重ねられるうちに、舞台となる杜王町のイメージや、登場人物たちの関係なども複雑に絡んでゆき、登場人物たちの成長や変化も刻まれ、それらが自然に膨らんでゆくことで、その点を見事にカバーしていると思う。線が、いつのまにか面になり、立体になっている。「重ちー」が殺された後、何故かいきなり杜王町スタンド使いたちが一同に会する場面があって(そこには億泰の父までいる!)、その展開がすばらしいのだが、ここで一気に構図が見通しのよいロングショットになるような感じで、ここで改めて、いままで積み重ねられてきた世界の複雑さと厚みが確認される。