●『女は男の未来だ』(ホン・サンス)をDVDで。へんな映画だった。「だめだめなロメールみたいな感じ」と言われて観てみたのだが、はじめの方は本当にヌーヴェル・ヴァーグそのままという感じで、今どきこんなことをやっててもなあと思ったのだが、次第に変になってゆく。
茶店というか軽食屋みたいなところで、かつての大学の先輩と後輩らしい人物が男二人で会話している(酒飲んでる)場面で、店内と、ガラス張りで見える外とが同時に画面に納められているのだが、その、内側と外側の関係がすごく変というのが、まず、おっ、と思ったところ。そこから、よくわからない感じで回想にはいってゆく(いきなり季節のかわるその場面が、時間が経過した場面ではなく、回想だということは、かなり場面がすすんでからわかる)のだが、そこで、カフェで会話しているカップルの女性が唐突に、昨日、強姦されたのだと言い出すあたりから、おしゃれ系ヌーヴェルヴァーグファロアーな感じから段々逸脱してゆく。その後、カップルがホテルでセックスしてる場面につづくのだが、その妙な空気のセックスシーンになると、80年代の日本のピンク映画のようなにおいも感じられる(その後、ミエミエの小津的なカットがあったりもする)。女性は、あくまで淡々と強姦されたという事実を語り、カップルはその後も普通にホテルに行く。そのセックスシーンは不思議な空気ではあるものの(男性は妙なことを口走り、途中で一度やる気をなくすが、ふたたび始める)、やはり淡々としている(このカップルの男性が、最初に軽食屋にいた先輩なのだった)。男たちはセックスのことばかり考えているとも言えるのだが、しかしことさら性的なことが強調されるわけではなく、その行為はきわめて淡白だ。
しかし、これは映画を観終わってから「あらすじ」を頭のなかで整理していて気づいたのだが、先輩が恋人をおいてアメリカへ留学したのは、恋人が強姦されたという事実を感情として受け止めきれなくて、アメリカへ逃げたということになるのだった(最初の軽食屋の場面は、その先輩がアメリカからもどって後輩に会うという場面だ)。しかし、あくまで映画を観ているそのときは、人物の行動が淡々としていて感情的にならないこと、展開が軽くシュールといえるくらいに唐突でそれについてゆくのに気をとられていること、ひとつひとつの場面が軽く「外している」みたいに微妙に変であること、そして、登場人物たちが皆、不可解であるとともに薄っぺらな俗物として描かれていること、によって、このような「(感情として)重たい事実」は見ている側ではスルーしてしまう。少なくとも映画の表面からは強く感じられない。最初は淡々とした時間、次第に、ぐたぐたの時間が、特に何か事件が起こるということもなく、しかし先が読めないような不思議に唐突な展開でつづいてゆく、という映画としてみている。
しかし「あらすじ」としてみると、この先輩の恋人は実は後輩とも関係をもっており(後輩と恋人との関係の描写がすごく面白い)、この後輩もまた、先輩の恋人への思いを引きずっているらしいのだ(この恋人は、先輩といるときと後輩といるときでは別人のようであり、また、三人一緒にいるときは、さらに別の人のようである)。このような複雑に絡んだ感情を持つ三角関係の三人が、大学時代から何年後なのかは明確にはわからないが、それなりに時間が経ったあとに再会し(先輩はアメリカで映画監督になり、後輩は既婚であり大学の教師になり、恋人はバーを経営している)、一夜を過ごし、そして翌日に再び関係が決裂する、という話で、そこにははっきりと、メロドラマ的で分かりやすいといえるような、強い共感可能な(通俗的な、と言ってもよい)感情的な揺れが刻まれている。撮り方によっては、しみじみと感傷を響かせることもできるだろうが、そういうこともしていない。だが、一見、ロメール的な幾何学的人物配置のようにも思われるとしても、そこにはロメール的な、関係の外で関係を操作しているようなシニカルさとはまた別のものがあるように思われる。
映画としては、感情的な表現はほとんどされない。登場人物は男性も女性も、何を考えて、どう感じて、そのように行動しているのかわからず、行動のみが示されている。あるいは、その考えはいかにも浅はかで、ミエミエであるかのようにさえみえる。この映画を観ているときに面白いと思っていること、観客を映画に結び付けているもの、は、ひとつひとつの場面の奇妙さであり、展開の唐突さ、描写の面白さ、新鮮さであろう(三人でしみじみ飲むのかと思っていると、いきなり隣に住む友人と黒い大きな犬が侵入してきたりする)。おそらく観客は、登場人物に感情移入することはできないし、その心情にしみじみ思いをはせることもできない。しかしそれは、ヌーヴェルヴァーグ的な反心理主義とは異なっているように感じられる。あらすじ的には、通俗的といってよいくらいの激しい感情的な起伏が刻まれているにもかかわらず、それが表現されないのだ。その感情を、相手に伝える形式がこの映画の世界にはないかのようだ。世界の裏側に「あらすじ」として書き込まれたその渦巻く感情は、あるいは出来事の重さは、世界の表面には顕在化される場所をもたなず、世界は低い体温のまま流れてゆく。それは場所化されないどこかにある。ここに、ある摩擦の感触がみてとれるように感じる。この独特の感触が、ただ、やろうとしている内容と形式がかみ合っていないというだけのことなのか、それとも、ホン・サンスという映画作家独自の何かなのか、それはこれ一本だけ見たのでは何ともいえないのだが。
この映画の不思議さをもっとも強く感じた場面は、後輩の男がみる夢の場面だ。後輩は、先輩と恋人との関係の確かさを感じてあきらめたのか、一人身を引くように二人と行動を別にする。一人でベンチに座って、自分の学生たちがするサッカーを見ている後輩の男は、いつの間にか眠って、自分が学生たちから慕われ、しっかりと信頼され、屈託ない笑い声とともに受け入れられ、肯定されているという場面を夢でみている。「俺にはお前たちがいるから大丈夫だ」と(もちろん、この男はそんなに良い教師ではないし、良い教師を目指しているわけでもないことも明白なのだ)。この夢のなかの学生たちの笑い声の、なんと大げさで、白々しく、わざとらしいことか。しかし、この白々しい夢によってはじめて観客は、後輩の恋人への思いの強さ、その失意の大きさを知るのだ。実際、この男はきわめて俗物であり、あるいはきわめて「即物的」な男として描かれている。そんな男がこんな夢をみてしまうのだ。しかしだからこそいっそう、この夢の「寒さ」や「薄さ」が、その底にある感情のざわめきが身にしみる。この夢の場面のきわめて「寒い」感触にこそ、この映画のリアルさがあるように思った。