●京橋の映画美学校第一試写室で『母なる証明』(ポン・ジュノ)。「監督の意向で、ストーリーの結末が公表されないよう、説明は《殺人事件の真犯人を追うべく、母はたった一人で走り出す》までにとどめてくださいますようお願い申し上げます」というお達しがあるので、あまり詳しくは書けないのだけど、良くも、悪くも、ポン・ジュノすげーっ、という映画だった。確かにすごいのだが、この映画を肯定してよいのかどうかは、よくわからない。
ポン・ジュノは、映画として何か新しいことをやっているわけでもないし、一貫したことをやっているわけでもない。おそらく、自分が今まで見たもの、影響を受けたものを、なんでもガンガン作品に取り込んで、どんどん煮詰めてゆくという感じなのだと思う。そして、その煮詰まり方が半端ではないものになってきていることは確かだろう。それは確かにすごいのだが、同時にとても危うい。危ういという言葉は「下品」と言い換えてもよいかもしれない。しかしその危うさこそが面白いとも言える。だが当然、危ういというのは、吉と出るのか凶と出るのかがいつも不安定で不確定だということである。
●おそらくポン・ジュノには、作家として追求してゆきたい一貫した主題というものもないのだろう。少し前にDVDで、95年につくられた初期の短編3本を見たのだが、これがびっくりするほどつまらなかった。新聞の風刺漫画レベルの社会批評とか、すこく浅はかな前衛気取りみたいな映画だった。しかも、その三本には主題的にもスタイル的にも一貫性がない。ただ、その三本で唯一面白かった点、三本で一貫していた点は、風景をきちんと撮ろうとしていること、そこにある空間から何かをつくろうとしていることくらいだった。そして、その点は新作まで一貫してつづいているように思われる。
●この映画が危ういというのは、監督の計算内のことでもあろう。ある紋切り型の価値観の枠内に収まらないように、賛否両論が予測されるように、あらかじめ計算してつくられている、とも言える。そういう意味でも下品といえるかもしれない。しかし、この映画の危うさは、そのような、あらかじめ計測された、議論を呼ぶことを狙ったもの、というところには収まらないところもあるように思う。そこを突っ切って、もう一歩先まで行っているように思う。
●人はどうしても「母」という言葉に過剰に意味を見出したり、過剰に反応したりするのだが、しかしこの映画は、途中までならば、ある狂気に取り付かれた孤独な女が暴走してゆく話として捉えられると思う。カサヴェテスの映画のジーナ・ローランズが韓国のおばさんになった、というような(映画としてはカサヴェテスにまったく似てないが)。しかし終盤、この女は、狂気の暴走から、事態の収拾へと急激に舵を切り、すべてを知った上でそれを握りつぶす。そこには、狂気に貫かれた者のもつ崇高さはなく、まさに「母」と呼ばれるべき、すべてを飲み込んで吸収してしまうような恐ろしい無敵の自己肯定(エゴイズム)の装置が作動する。この反転を捉えた、この反転まで突き進んだという点で、この映画はすごいといえる。しかし、観客である私は、それをすんなり飲み込むことはできない。
●ここにみられるのは善悪の問題ではなく、ある種の崇高から卑小な俗情への一気の反転であり零落であろう。それはほんの紙一重の違いなのだ。この映画で嫌というほど繰り返されるキム・ヘンジャのクローズアップは、崇高さと卑小さが、同じイメージの上に訪れ、重なり合い、イメージそのものだけではそれを峻別できないということを示すのかもしれない。そして、あえて卑小な俗情を迷いなく選択する「強さ」を、いったいどのようにして否定すればよいというのか。それと拮抗しえる強さはどのようにすれば可能なのか。おそらく、この「強さ」に拮抗し得るのは、あらかじめ「否定」が書き込まれた「法」の言葉のみだろう。
●ここまでやれたポン・ジュノはすごいと思う。しかし、何でもありという「法」の不在によって、濃度と強度を増して、この地点にまで到達したポン・ジュノの作品において、今後、「否定」はどのように作動可能なのだろうか。ポン・ジュノは、ますますスリリングな作家となった。良くも、悪くも。