●『狂気の海』(高橋洋)をDVDで。『おろち』がとても面白かったので、ぼくのなかではまた高橋洋ブームが起きつつあるのだが、しかし、この『狂気の海』は、ぼくの側のそういう期待をはるかに超えるような次元でぶっとんでいた。特典映像としてついているトーク高橋洋は、強く動揺させられるような作品を見せられると、思わず「ひどい」という言い方をしてしまって、貶しているのと勘違いされてしまうのだが、そういう言い方でしか言えないくらい衝撃を受けているということなのだ、というようなことを言っていた。この『狂気の海』もまた、そのような意味でめちゃくちゃに「ひどい」映画だ。ほんとにひどくて唖然とする。ほんとにひどくてうきうきもする。カットがかわるたびに予想を上回るひどい展開が待っている。今、この「ひどさ」と拮抗し得るのは、「明日晴れるのなら芥川賞は俺のものだ」と確信してしまう磯崎憲一郎の「胡散臭さ」くらいのものだと思う。
日米関係、憲法九条、核軍備、等という、一見大状況を語るかのような物語は、神代文字、エジプトよりも期限の古い地下の帝国、霊的国防などという胡散臭い概念が入り交じることで、狂人の妄想へと反転する。しかし、実際には、この混同は必然であり、大文字の政治とは常に、大状況と妄想とが混じり合った誇大妄想をもつ人によってしか担われないだろう。実際、頭のおかしな人ほど「大状況」を語りたがる。あるいは、頭のおかしい人でなければ、大状況に関わるような政治家になどなれない。大状況に関わるような政治は、きちがいの妄想によってしか可能ではない。しかしその「きちがいの妄想」こそが、この世界全体に大きな影響を与える力をもってしまう。
「低予算で、密室で、少人数でも、大状況について語ることが出来る」とトーク高橋洋は言っていたのだが、むしろそれは逆で、大状況というのは、密室での、小人数でのチープな会話としてのみ、語ることが出来るものなのではないか。つまり、大状況というものがそもそも、密室の狂人の「妄想」としてしか成立しない。アリーナが大きくなり、そこに参加する人が増えれば、大状況はたちまち解体され、小さな状況の複雑な絡まりに分解されてしまうだろう。客観的には、大状況などどこにも存在しない。科学は分節するが統合しない。知性は、つねに小さな声のつぶやきとしてしか存在しない。だからこそ「狂人の妄想」として、その狂気の力だけを支えとして、大状況が設立され、「小さな状況の絡まり」たちを、狂気の力によって強引に統合しなければならなくなるのだ。おそらく、大文字の政治はそれによってしか可能ではない。『狂気の海』は、そのような事実のヤバさや胡散臭さに直接触れている。
だがしかし、『狂気の海』が描き出すような大状況の妄想は、実際に力を得ることは決してないだろう。高橋洋は決して政治家や活動家にはならないはずだ。それは、国家を動かすどころか、小さな新興宗教すら設立できない。それは徹底して、尤もらしさや、説得力や、「現在」への配慮や、政治的正当性への配慮、動員への意志、等々、を欠いているからだ。それは、中途半端に「現状への批判やカウンター」を含んでいない。だからこそ芸術作品として「本物」なのだし、抵抗として本物なのだ。
ここで語られる、いかにもチープな大状況や物語を、それ自身として信じる者は誰もいないだろう。しかし、高橋洋が、それをふざけてやっているとも、誰も思わないはずなのだ。その「本気度」の深さは、誰の目にも明らかだろう。しかしそれは、チープな物語を、あえて本気で信じてみる(あるいは、チープだと分かった上で、それを楽しむ)、というようなアイロニーとは全く別のことであるはずだ。むしろまったく逆で、こんな話は全く信じられない、インチキなものであるのは明らかなのに、どうも自分は、そこにこそ住んでいるのようなだ、という感じではないだろうか。意識的にはまったく信じてなどいないが、にもかかわらず、その信じてなどいないチープな場所こそが、どうやら、自分の住処であり、生きる場所であり、宿命の場であり、リアリティの起源であるかのようなのだ、ということ。そこから逃れようとしても、向こうの方から執拗に追いかけてきて、何度も立ち上がってくるのだ、と。
高橋洋は、「そこ」こそが正しい場所なのだ」と主張したり、「そこ」を正当化しようとしているのではなく、ただ、その場所を、自らに与えられた宿命の場所として受け入れ、「そこ」を出来うる限り誠実に、そして精密に生きようとしているのだと思う。そして、その宿命を生きる姿を通して(つまりその「作品」を通じて)、別の場所にいる未知の誰かに、その宿命を密かに伝達し、継承させようとしているのではないか。それは端的に「呪い」の継承であるが、それは決して集団や勢力を指向するのではなく、ただ「系譜」のみを指向するものであるように思われる。歴史は、その正当正や客観性によって、あるいは政治的な力によって、ひろく共有されるものとしてあるのではなく、「系譜」として、そこに連なる者たちによってだけ、孤独に、密かに継承されるものなのだ、と。