●最近、フーコーをいろいろと読み直している。きっかけは『夜戦と永遠』を読んだことなのだが(『夜戦と永遠』もこの夏、もう一度読み返した)、フーコーを読むのは(『夢と実存』の序文を除いては)十何年ぶりという感じ。ずっと感じつづけていたフーコーへの距離感は、一時、人文学的な言説に支配的だったフーコーの影響(というか、フーコーを言い訳にして、生政治とか環境管理型権力がどうしたとか言って何でも社会科学化する風潮)への嫌悪感があったからなのだが、当然のことだけど、フーコーの書いたものはそんなに単純じゃないし、そういう風潮とはあまり関係がなく面白いこともいろいろ書いてある。その関連で、ドゥルーズの『フーコー』も、ちょっと気合い入れて読み直したのだが、これが驚くほどいい本で、最良のフーコー入門であると同時に、最良のドゥルーズ入門でもあるという感じで、『シネマ』を読んでいてどうしても納得いかなかったことのいくつかのヒントがあったような気がする。『シネマ』は、ドゥルーズの本としてはイマイチという感じがどうしてもしてしまうのだが、はじめからがっつり読み直すのはきついとしても、いくつかの章を、もう一度改めて読んでみようかとも思ったのだった。
●必要があって『ほえる犬は噛まない』と『グエムル』をつづけてDVDで観た。『殺人の追憶』と『母なる証明』は簡単に好きとは言えないのだが、この二本は文句なく好きだと、観直して改めて思った。一つ一つの場面がいちいちすばらしい。正直に言えば、『グエムル』は、後半というか、終盤がやや弱いようにも思えるのだが、少なくとも前半に関しては、すべての場面が文句なく面白い。ポン・ジュノのアクションは、幅が狭くて、前後が長い(奥行きが深い)、うなぎの寝床みたいな空間で展開されることが多いと気づいた。『吠える犬…』の、地下室や団地の廊下、屋上、『グエムル』の排水溝や、土手の傾斜が川へ落ち込む前のちょっとした水平面(最初、ここを怪物が走ってくるのがすごい!)、携帯電話会社の廊下もそうだし、父親が監禁される軍の施設も何故か細長い。あと、親密な人同士は必ず狭い空間に押し込められる。究極は怪物の腹の中で、ここで命が交換されていたとも言える。
●大幅に書き直しているらしいので、文庫版『四十日と四十夜のメルヘン』を買ったのだが、この著者の写真は、ここまで含めて青木さんの狙いというか、ネタだとみるべきなのだろうか。この写真の裏側で、青木さんがニヤニヤ笑っているような気がする。
●駅前のマックで本を読んでいた。隣の席に女の子の二人組が座っていた。二人は向かい合って座っているが、一言もしゃべることなく、それぞれ携帯をいじったり、DSをやったりしていた。一人が、自分に来たメールにキレて、「おめーは何あたしに突っ込んでんだよーっ」と叫んでも、もう一人はまったく反応せず、DSの画面に集中していた。DSの方の女の子が、「あー、なんかやばいところにはいりこんじゃったみたいーっ、」とつぶやいても、もう一人はそちらを見ることなく、ぷかーっとタバコを吹かしていた。一人が、ふいに黙って立ち上がって、どこかへ行った。うわーっ、黙って帰るのか、すげーな、と思ったら、しばらくしたら戻ってきたので、トイレにでも行っていたのだろう。そしてまた沈黙。横目でちらっと見たら、DSしていた女の子が、今度は携帯をいじりだし、もう一人はテーブルに肘をつけ、両手で顎を支えて眠っていた。ずっとそちらばかり気にしていたわけではないが、ぼくの知る限りでは二時間くらい一言も言葉を交わしていない。しかし決して険悪な雰囲気ではなく、むしろ親密な感じだ。
「あー、できましたー」と声が聞こえたので目玉だけでそちらを見たら、携帯がまたDSに戻っていた。すると、眠っていると思っていた方がハッと背筋を伸ばし、パチパチバチといきなり拍手をして、「えー、ほんと、すごーい、さすがーっ」と声を出した。あっ、反応した、会話した、と驚いた。二人でDSの画面を見合っていた。