●引用。メモ。フーコー「私の身体、この紙、この炉」より。狂気と夢。徴候と権利(能力)の問題。「われわれは夢をみているとしよう」。
《(デカルトが『省察』において)なぜまず、insanusという語を用い、ついでamens-demensという対を用いたのか。狂人たちを特徴づける際、彼らの想像力の真実らしからぬことをもってそれをするとき彼らはinsaniと呼ばれる。これは、日常語にも医学用語にもひとしく属する語である。Insanusであるとは、自分を自分でないものと思いこむことであり、妄想を信じこむことであり、幻想の犠牲になることである。それこそが、その徴候である。そしてその原因は、脳が蒸気でおかされてしまうことである。ところが、もはや狂気を特徴づけるのではなく狂人のまねをしてはならないのだと主張しようとするとき、デカルトはdemensおよびamensという術語を用いている。それは医学的である以前に法的な術語であり、一定の宗教的、市民的、法的行為の当事者となることができない人びとの範疇を指示している。Dementesは、話したり、約束したり、契約したり、署名したり、訴訟を起こしたり等々する際に、全幅の権利を有さないのである。Insanusは性格づけの術語であり、demensとamensは資格剥奪の術語である。前者において問題となっているのは徴候であり、後の二者においては能力なのである。》
《そこで、問題は次のように提起されることができる。私は自分自身の身体を疑うことができるか。自分の現実態を疑うことができるのか、と。狂人たちの例、insaniたちの例は、そうするべきだとうながす。けれども、自分を彼らのようにみなすこと、彼らのようにふるまうことは、私もまた彼らのように、心神をを喪失し、私の省察の企てにおいてふさわしい能力を失い、失格者となることを含意する。彼らの例のまねをした場合、彼らにおとらずdemens〔心神喪失者〕になってしまうというわけてである。しかしその反対に、夢の例をとった場合、夢をみているふりをした場合、私はdormiens〔眠る者〕であるにもかかわらず、省察し、推論し、明晰に見ることをつづけられるだろう。Demensになった私にとって、もはやそうした続行は不可能になるだろう。ただこの仮説だけで、私は立ち止まって、別の事柄を検討し、別の例が自分の身体を疑うことを可能にしてくれないか探さなければならないのである。Dormiensになった私にとって、省察を続行することは可能である。私は思考する資格をもちつづける。そして私は、決意をするのである。すなわちago somnienus〔われわれは夢をみているとしよう〕、そしてそれは省察のあらたな契機に導くのである。》