●ずっと寝てた。最近は歳のせいか、途切れ途切れの短い睡眠を何度か繰り返すという感じになっているのだが、さすがに今日は、昨日の徹夜の影響で、意識を失うように眠った。眠って、次に気がついたら七時間経っていた、という眠り方は久しぶりだ。すごく濃厚な夢をみた。細部はほとんど忘れてしまっているが、その感触はまだ残っている。でも、もうしばらくするとこの感触も消えてしまうのだ。毎日夢をみて、毎日それを忘れてゆく。
●溜まっていたメールの返事を書く。時々、メールの返事を書けない病になる。日記や原稿は普通に書けるのに、具体的な誰かに宛てた文章が書けない。確認とか、挨拶とか、事務的なことがらさえ滞ってしまうので、書けないというより、書く気持ちがどうしても開かれない、というべきか。無理矢理にでも、一度気持ちをそちらに向けてしまいさえすれば、なんでこんな簡単なことを今まで億劫がっていたのかというようなことなのだが、ときどきなにかがぷっつりと切れてしまう。書くことが億劫なのではなく、気持ちを誰かに向けることが億劫になるのだろう。原稿が書けるのは、その時の気持ちが他人に向かっているのではなく作品に向かっているからで、この日記が十年ちかくつづいているのは、それが限りなく独り言に近いからだろう。独り言というよりも、見た夢を忘れないようにメモしておく、というのに近い。
事務的なことや挨拶程度なら、無理矢理に気持ちをそちらに向けることでなんとかなるのだが(それさえ時々どうにもならないのだか、まあそれはおいといて)、それでもどうしても返せないメールがある。別にそこに特に重たいことが書かれているわけでも、重大な決断が迫られているわけでもない、ごく普通のことが書かれていたりするだけなのだが。相手には失礼をしてしまうことになるが、そういうメールが返せないのは仕方がないと思うことにする。適当に返事を書いて、「返事を出した」ことですっきりするよりも、「返事が書けない」ことの負債を背負って、いつかちゃんと返事をしなくては、と意識しつづけることの方が、相手の言うことを受けとめているということになるのではないか。ああ、でも、こういう風に書くとへんに大げさになって、またちょっと違ってしまうのだ。
●『浜辺の女』(ホン・サンス)をDVDで。今まで観たホン・サンスで一番面白い。とはいえ、ホン・サンスのやっていることはどの映画でもほとんど同じで、まるで「男はつらいよ」みたいに、どこを切ってもホン・サンスでしかないのだが、最近の作品になってくるにしたがって映画としての洗練が増してきて、そこで描かれるダメダメでグズグズな人物や人間関係と、その映画としての洗練の度合いとの乖離がどんどん大きくなっていて、そこが面白い。だんだんクセになってくる。
この映画では、いつもの男二人に女一人という三角関係が、後半になると女二人に男一人という形で反転するという展開はあるのだが、相変わらず三人の関係で、その三人がやっていることも相変わらず、酒飲んでるか、セックスしてるか、セックスしようとしているか、だけなのだ。彼らの行動の原理は下心であり、彼らの行動はすべて場当たり的で一貫性がなく、彼らの行動は関係によって強いられる力学に完全に規定されていて、その関係性そのものに対するメタ的視点や、そこを越え出ようとする反省などはない。例えば、映画で話されるセリフの「言葉」そのものには何の意味もなく、それはすべて状況に向けた言葉で、要するに、状況を自分に優位な方向に運ばせるための言葉だったり、不利な状況で形成を逆転させようとする言葉だったり、その場しのぎの言葉だったりして、しかもその目的は成功するより失敗することの方が多い。すべてを動かしているのは関係の力学であり、そのエネルギーは下心である。
ホン・サンスの登場人物には、尊敬したり好感をもったりすることの出来る人が一人もいない。かといって、軽蔑したりバカにして済ますことも出来ない。彼らの行動に半ばあきれ、半ば身につまされつつ、苦笑する、という反応をするしかないように思われる。しかしこの苦笑は決してニヒリスティックなものではなく、何故か解放感を与えてくれるようなものなのだ。ホン・サンスには人間に対する諦めのような感情があり、人間なんてこの程度のものだという認識があるように思える(それと同時に、「映画」なんてこの程度のものだという認識も)。でもそれは、苦さのようにものを伴わない、こんなもんでいいんじゃねー、これで十分なんじゃねー、という感覚なのだ。だからそこには(ロメールには時々みられる)、あらゆることを関係の外側から操作しているかのような上から目線は存在しないし、ダメダメでグスグスな関係ばかりが描かれるのに、不思議に文学的な「爛れ」感もない。ホン・サンスの映画はまったくエロティックではないが、ただ下心だけが妙に生々しい。そこには、何か超越性を感じさせるような瞬間は訪れない(ロメールにおいて超越性は「エロ」であり、それは恩寵のようなものとしてあるが、ホン・サンスにはそれがなく、下心は行動の動力源であって昇華されることがない)。
苦笑しつつも、まあ、こんなもんだよなあ、これでもいいんだよなあ、と思う。ホン・サンスの映画を二十代の頃に観ていたら、ぼくの人生も多少違ったかもしれないとも思う(いや、やっぱ違わねえか)。