●原稿を書いてメールで送ろうとしたら電話回線がとめられていた。
●原稿が書けたので、「未明の闘争」(保坂和志)の連載一回目をゆっくり読んだ。ぼくは『カンバセイション・ピース』からはタルコフスキーにとても近い感触を感じるのだけど、「未明の闘争」の冒頭からはブニュエルにちかいものを感じた。初期の、シュールレアリストとしてのブニュエルでも、メキシコ時代のブニュエルでもなく、晩年、フランスで映画を撮っていた時期のブニュエル。『銀河』とか『自由の幻想』のブニュエル。これは、見立てとか位置づけの問題ではなく、勿論、ブニュエルからの影響というのでもなく、作品から直接感じられる感触とか印象のこと。ブニュエルに似ている、というのともちょっと違う。それはたぶん、記憶の遠近法というか、モンタージュのされ方の感触がブニュエルを思い出させる、ということだと思う。似ているといえば、細部の感触としては、いままで保坂さんが書いたどの小説よりも、保坂和志本人に似ているという気もした。
●「残響」、『カンバセイション・ピース』につづいて、また「あやこ」(彩子・綾子)が出てきたのだが(『カンバセイション・ピース』とはまったく同じ沢井綾子という名前なのだが)、今度は夢のなかの人物だった。
とはいえ、「残響」の彩子と『カンバセイション・ピース』の綾子とを「あやこ」という音の同一性だけでひとくくりにするのは間違っているのかもしれない。たしか去年のことだったと思うけど、久しぶりで「残響」を読み直して、そのあまりの重さにかなりダメージを受けたことがあった。そのダメージには、保坂和志が「残響」を書いたのが、ぼくがそれを読み直した時期と同じ四十代のはじめ頃であったということも関係している。作品の重さと自分自身のなかにある重さとが響いてしまったという感じ。保坂和志でさえ、こんなに重いのか、と。その重さは主に、彩子と別れたばかりの元夫の思考の筋道に起因しているように思われた。だから、この重さを払拭するためには、この元夫の思考の筋道を、否定するのではなく、それを含みながら、もうひとまわり大きな別のものへと更新する必要があったのではないだろうか。そう考えると、『カンバセイション・ピース』があのような形で書かれたことの必然性が、改めて飲み込めるようにも思えた。そして、綾子という人物はそのために、その過程であたらしく生み出された人物であるようにも思えた。綾子は、それ以前の保坂和志の小説に出てくる、大柄でケバい感じの、ヤンキー風の女性像と共通する部分を多く持ちながらも、根本的に彼女たちとは違う存在であるように思った。その綾子が、夢のなかに、《沢井綾子というフルネームで登場した人物にはまったく心当たりがなかった》というような存在として出てきたのだった。