●誰かによって一度でも考えられたことは、この世界のなかで実現される可能性をもつ。それは、強く思えば願いは叶う、ということとは違う。おそらく、個人という単位においては、願いは多くの場合、現実的には叶わない。人は失望とともに生きる。しかし、誰かが願ったことは、別の誰かにおいて叶えられる可能性が生まれる。これは別にオカルト的なことではない。誰かが何かを考え、それを願い、その願いが別の誰かへと受け継がれることで持続すれば、それは実現の可能性をもつ。あるいは、誰かによって一度でも考えられ得たことは、それが途切れ、忘れられたとしても、いつかは別の誰かによって再び考えられるだろう。希望はあるが、それはわたしのものではないとカフカが言ったのは、おそらくそういうことではないか。芸術にとって重要なことは、ともかく何かしらの「良いもの」が、誰かによって一度でも考えられる、ということではないか。良いことを考えつき、良い状態を想像-創造すること。それを一時期でも、頭のなかに存続させること。それは決して想像的なものへと退却することではないのではないか。個人は常に卑小であり、状況に支配され、下らない、どこへ転ぶとも知れないふらふらとした存在で、頭のなかの「良いこと」は現れてもすぐに消えてしまうかもしれないが、そうだとしても、そのような個人によって考えられた「良いこと」は、個人の卑小さを超えて存続し得る(そして作品はきっと、それをある程度は保存する)。それは、個人の愛すべき下らなさやいい加減さや胡散臭さや欲深さとは、きっと矛盾しない。必要なのは、(突っ込まれる隙のないような)「立派な人」や「立派な考え」ではなく、たんに「良い考え」であり、「良いもの」であろう。