東向島のC.A.Factoryで、神村恵新作ソロ公演「次の衝突」。東武伊勢崎線にはじめて乗った。浅草駅を出るとすぐに隅田川を渡り、とてもゆっくりとした速度で、古い家屋と倉庫が、積み木みたいに隙間無く並ぶ下町っぽい風景のなかにはいってゆく。東京の西側(というか西の果て)に住んでいると、こういう東京の東側の風景がとても珍しくて面白い。そして東武伊勢崎線がなによりよかったのはその遅さで、大げさに言えば、路面電車か、というほどの速度で進む。15時からの回を観たので、終わった後、あたりをすこし散歩してみた。
神村恵のダンスそのもののおもしろさと、ダンスとそれ以外のもの(音楽、岸井大輔の語り、プロジェクターによる映像)との関係のおもしろさ。ダンスとそれ以外のものが、関係ないまま関係するという感じが、前よりもシンプルに示されているように思われた。そしてその関係のなさという関係が、とても開かれた感じだったのがよかった。
ダンスは、あきらかにダンスを感じさせる動きがあり、一方、からだの別の部分ではそれをぐずぐずにしてしまう別の動きがあり(動物を感じさせる動きが多いように感じた)、それが同時にひとりの身体で起こっている感じ。ダンスがはじまるずいぶん前から会場にはリズムを刻む太鼓の音がずっと流れていて、すでにj前もって音のある環境のなかにダンサーが入っていって、そこであきらかに(ごく普通に「踊る」という意味で)ダンスを感じさせる動きがはじまるのだが、それは太鼓の音-リズムはあまり関係がない。あと、舞台(といっても同じ平面なのだが)に最初から扇風機があって回っているのだが、それがほとんどダンスに関係なく最初の方ですぐに隅に追いやられてしまうのが可笑しかった(ずっと隅に置かれたまま)。太鼓の音はいつのまにか消え、しばらく無音の後、南米風のダンス音楽がかかるのだが、これもまたダンサーの動きとはあまり関係ない。ダンサーがつくる、動きの流れや単位と、曲そのものの流れや、音が始まったり消えたりする流れやタイミングが、ほとんど関係ない感じなのだ(外から、電車の振動や救急車のサイレンなども、ダンスと無関係に聞こえてくる)。
南米風の音楽が消えてしばらくして、いきなり客席にいた男(岸井大輔)が立ち上がり、観客に向かって喋り始める。「昨日失敗したのはいろいろ理由があめるけど、あっ、でも、この公演が失敗したとかじゃなくて…」というような、要領を得ないことを延々と喋る。ここには、ハプニング的な驚きはまったくないし、狙われてもいないだろう。男が岸井大輔だと観客はだいたい知っているし、そもそももう一人の出演者の名前が前もってクレジットされている。観客は一瞬「えっ」と思うけど、すぐにそれが「意図されたもの」と分かる。つまり、ダンスする人と喋る人とがたんに併置されている。しかしそれでも、ダンスする女性ダンサーの緊張した身体と、普通にだらだら喋る男性の身体との違いが同時に併置されるのは衝撃的ですらある。このふたつの身体が一つの舞台に共存することなど不可能で、空間そのものがゆがんで感じられるくらい、ふたつの身体の有り様は別次元の存在のようだった(色調も縮尺も解像度も、撮られた年代もまったく違う二枚の写真を強引にコラージュしたみたい)。うわ、こんなに違うんだ、というくらい違う。そのまったく別物を、大げさの効果とかをつけず、すごくさらっと併置してみせているところも面白い。(岸井大輔が加わる直前に、ダンスしている神村恵も、ふと言葉を漏らすかのようにして発語するのだが、この、ダンスとしてのダンス内-発語と、岸井氏による単なる発語-お喋りとの違いも、強く印象に残った。)
その後、工具を使った動きや、四つん這いになる動きなどがあり、最後に、ダンサーが舞台から客席の脇を通って、客席の後ろ側にまわり、また反対の脇から舞台へ、ぐるっと一周して戻るという円運動を始めると、舞台後ろ側の壁に映像が投影される。開いたドアの外(直接外と繋がるドアが開かれたままで公演が行われていたのだ)から、ドアの内側を撮っているリアルタイムの映像だ。映像には、外の壁と、その壁に寄りかかっている岸井大輔の腹の辺りの部分、そして会場への出入り口、そこから覗く一部の観客の後ろ姿、観客の後ろ側をダンスをしながら通っているダンサーの姿が映っている。つまりそこで観客は、自分たちの後ろ側、しかも会場の外にまで後退した後ろ側を、前方に投射された映像として見る。
自分の後ろ側を、前方に見る。そこには、今、後ろにいるダンサーと、さらにそれよりも壁一枚隔てて外にいる、先ほどまでパフォーマンスしていたらしい男も写っている。観客はそこで、自分のいる位置を一瞬見失う。後ろを振り向くと、映像に映っていたダンサーがいて、そしてその先には出入り口があって外が見える。前を見ると後ろにある出入り口の外側から、自分たちのいる部屋(後ろ姿)を撮っている映像が見える。前には映像のなかのダンサーがいて、後ろにはその被写体である実物のダンサーがいる。空間そのものが分離し、その空間のなかにいる観客すらも分裂し、そのまま併置されているかのような、すごく変な感じ。
●もう一つの別の部屋で映写されていた、神村恵と小林耕平がコラボレーションしたビデオ作品(『神村・福留・小林』)もすごく面白かった。鏡張りのスタジオ、三人の人物(被写体であると同時に、それぞれがカメラを操作してもいる)、パーテーションや折りたたみ机という、移動し、視線を遮る物。これらの要素にだけよって、山本現代で展示されている小林耕平のすばらしいビデオ作品(http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20091002)より、いっそう複雑な空間をつくりだしている。完成度という意味では、小林耕平の個展での作品の方が勝っていると思われるものの、それが含んでいる可能性という意味では、このコラボレーションの作品には、それを大きく超えるような可能性があるように思われる。これはマジですごい。たとえて言うなら、ゴダールが、映像と音声とをむちゃくちゃ綿密にモンタージュしてはじめて実現できているような状態を、たった一台の、ほぼワンカットの回しっぱなしのビデオカメラ一台をスタジオのなかに置くだけで、音もカメラが拾ったそのままで何の加工もないままで、実現してしまったかのような作品(15分くらいの作品でたしかカットは二つ)。また、『にほんかいいもうとといぬ』が、ほとんど偶然につかみ取ってしまったビデオカメラの可能性を、きわめて意識的に取り出したような作品だとも言える。すごく複雑で充実していると同時に、すごく緩くもある。前に小林耕平の個展を観た時にも書いたけど、マジで、ビデオカメラというのは、こういう作品のためにこそあるのだとしか、もう、思えなくなってしまうかのような作品。
●昨日は最後の段落のことしか言っていないので、「山猫」(青山七恵)についてもうちょっと。
これは推測にしか過ぎないけど、この小説は最初に女性の一人称として書きたいなにかがあって、そこで書かれたひとつの感情に対して、反対側にもうひとつ駒を置くという感じで男性(夫)からの視点が描かれる、という感じで展開していったのではないだろうか。三人称多焦点といっても、基本にあるのは一人称であるようだ。例えば、大学の同窓生であった後に夫となる人物に卒業後に再会した時、彼が、自分と、その時同時に職場にはいったもう一人の女性との「胸」を見比べた、という妻の回想に対する場面として、夫が、現在の職場で、今でも同僚であるもう一人の(胸の大きい)女性とする会話の場面と回想(実は彼女と二人で食事したことが何度かある)が置かれる、という風に。つまり、夫の視点は、あくまで妻の感情が先にあってそのカウンターとして置かれている。
(夫の視点は、もうひとつ、場面の転換の鮮やかさという効果を生む。例えば、東京タワーでの軽い衝突の後、部屋に戻った妻と栞との間の緊迫した空気が、そこへ何もしらずいきなり帰ってくる夫の視点から捉えられることで、鮮やかに浮かび上がることになる。)
で、そう考えるとすると、ぼくが昨日の感想で「小説全体の流れや構成からみれば唐突としか思えない」と書いた「いきなり夫が妻の《彼女の前にひれ伏して拝みたいような》美しさを感じる場面」は、その前にある、アルバイトの研修中の場面で、妻がふいに《無償に秋人に会いたく》なるという感情のカウンターとして小説中に招き入れられたとも考えられる。しかしそれがもし正しいとしても、栞が、妻とは登ることを拒否した東京タワーに、夫とは登ったという事実を夫によって知らされるこの場面で書かれる、《柔らかい生地のワンピースを着て微笑んでいる妻を見て、秋人は突然、彼女の前にひれ伏して拝みたいような気持ちにかられた》という記述が、唐突で過剰であることに変わりはない。ここで、この夫の妻への視線-感情は、目の前の妻が夫の報告によって、今、微妙な感情を抱いているということを、夫はまったく感知出来ず、まるで関係ないことを一人で勝手に感じているという、二人の断絶のようなものを示していると取ることも可能だけど、しかしそれにしても《ひれ伏して拝みたいような気持ち》という書き方が、「断絶」などというものとそぐわないことは明らかであるように思う。
ぼくはここで、構成の不備やバランスの悪さを批判したいのではなくて、まったくその逆で、妻の感情に対してカウンターとして夫の視線が置かれる、というこの小説の展開の原理が、小説のバランスを崩しかねないような唐突な細部を呼び込んでしまうという、小説の運動のダイナミックさこそが面白いと言いたいのだ。
そして、このようなダイナミックな運動性が、最後の段落の飛躍をも呼び込んだのではないかと思う。