●作品に触れている時、「私」とは、作品によって見られた夢にしか過ぎない。
だがしかし、作品は常に、既に言語の網の目のなかに置かれている。それは、私が常に、既に言語の網の目のなかに位置づけられていることと同じだ。言語は、徹底して私の外側にあるものだが、しかし同時に、私は、言語のなかでしか私ではない。だから人は常に、作品の経験について語るのだし、語ることを強いられている。人は既に、作品についての複数の交錯する語りのなかに住んでおり、その語りの網の目のなかでしか作品と出会わない。私がベケットを読むとき、ベケット文学史上の位置づけの、だいたいのイメージは既に持っている。それが正しいのかいい加減なものなのかはともかく。正しかろうが間違っていようが、語りは体系を形作りおのおのの位置を指定するものとして自律して、同等な強さで存在する。だが、そんなに心配しなくても、巻末には訳者による適切な解説が添付されているだろう。そのような、無数ある、既にある語りの地勢図の外で純粋に作品に出会うことなどあり得ない。人は裸の状態で作品とふれあうことなど出来ない。というか、人に裸の状態など存在しない。あるいは、「裸であること(あるいは、服を脱ぐこと)」は、常にその都度、すぐれた作品に触れるという実践によって繰り返し創造されることによってしか実現しない。無防備であるための、まわりくどい戦略。人は常に作品について語り、人の語りを聞き、その重層的に張り巡らされた網の目なかで作品と出会うのだが、作品の経験は、そのような語り-網の目と常にすれ違いつづけるだろう。すれ違わせる力こそが作品の力であろう。私が語る、私にとっての作品の経験についての語りですら、私の「経験」とは重ならない。重層化され、際限なく付け加えられ、修正され、流動する語りの網の目のなかに位置するものとしての作品と、そこから必然的にずれつづける、作品に触れている時の孤独な経験-感触との隙間に、その都度、新たに創造され、新たに生まれる「夢」がたちあがる。ひとつひとつの孤立した夢が無数にたちあがる。だが、もし、私も作品も、結局、網の目のなかのしかるべき位置に帰ってゆくしかないのだとしたら、その夢は消えてしまうのだろうか。