●お知らせ。「ユリイカ」11月号(特集・若冲)に、「「動植綵絵」を観る複数の時間」という文章を書いています。それから、これは一度ダメになって、ここにきて急に復活した話なので、またダメになることのないようにという祈りの意味もこめて書いてしまいますが、順調にいけば今年の年末に二冊目の本が出ます。小説について書いたものをまとめた本です。
●『2デュオ』(諏訪敦彦)をDVDで。十年ぶりくらいに観たけど、ええーっ、こんな映画だったっけ、という感じ。あまりにも緊迫していて、観てて息苦しくなるというか、胸がつかえたようになる。実際、途中で何度か呼吸できなくなったりした。いちいち身につまされるというか、実際に男女の修羅場に居合わせてしまったかのような緊張を強いられるというのか。つまりむちゃくちゃ生々しくてリアルなのだが、しかし、このリアルさは、作品としてのリアルさ、作品だからこそ実現できるという種類のリアルさとはちょっと違うように感じた。あまりにもリアルな「あるあるネタ」に近いというのか。男は、ここでそれをやったらおしまいでしょうとか、このタイミングでそれを言い出すのは最悪だろうとか、男女関係における地雷を次々と踏みまくるのだが、しかしずっと観ていると、この男がこういう風なのは、みんなこの女のせいなんじゃないか、この女こそが、この男をこんな風に追い詰めているんじゃないか、と思えてくる。それは、女が悪いということではなく、実際に、こういう人っているよなあ、と思うということだ。いや、そういう距離をとった冷静なものではなく、こういう人は、もうほんとにこういう人なんだよなあ、という、そのどうしようもなさに胸が苦しくなってくる。いや、もう、できればこういうものは観たくない、とまで思えてくる。
そしておそらく、このような「作品だからこそ実現できるという種類のリアルさ」とは別種の、しかも非常に強いリアルさを、この作品が孕んでしまった、つかみ取ってしまったことに、最も戸惑っているのが、この映画をつくっている誰か、映像と音声とを制御している人、つまり作品の背後にいる監督自身であるように感じられるのだ。なんか妙に生々しいんだけど、これってどうなんだろうか、と。この映画では、俳優ではなく、この映画の登場人物に、画面の外からの誰かの声がインタビューをするというカットが物語の流れを阻害するかのように何度も差し挟まれる。それがうまくいっているかどうかは、正直微妙だとも思うけど、でも、それを入れとかないと、作品とは別種のリアルさに、作品全体が押し込まれてしまいかねない。だがこのインタビューも、最初の方は、俳優が役の人物になりきろうとする微妙な戸惑いが見て取れて、ある(俳優が役のことを考えているという反省を感じさせる)距離の感覚を作品に招き入れることが出来ていたと思うのだが、最後の方の女-柳愛里のインタビューでは、役の女と俳優自身がほとんど一体化してしまっているように見えて、ここでも、「作品としてのリアルさ」とは別種のリアルさが勝利してしまっているかのようなのだ(とはいえ、人物の背後に写り込む風景の力が、映画が「人物」だけに近寄っていってしまうのを抑制する働きはあるようだ)。
作品が孕んでしまった、「作品としてのリアルさ」とは別種のリアルさに対し、「作品」が、自らのあるべきリアルさ(?)を主張し、その力で必死に押し返そうとしているのが、映画の終盤というか、女がアパートから去った後の展開なのではないだろうか。いや、勿論、その力の拮抗は作品全体に及んでいるのだが(この映画全体を通して貫かれている、フレームの開放性は、映画としてとても魅力的だと思う)、しかし前半はやはり、「作品としてのリアルさ」とは別種のリアルさの力が圧倒的に強いように感じられる。だが、女が去ってしまったことを男が知る一瞬手前、二人が住むアパートの階段が、映画がはじまってはじめて逆側から捉えられたカットで、アパートの一階のドアが、何故か意味のなく一度開いて、閉じられるのが、フレームの隅(隅というほど隅でもないが)に捉えられる時、ああ、映画だなあと思い、自分が今観ているのが「映画」なのだということを改めて取り返すことが出来たのだった。そこから急速に、この映画が「映画」であることを、強く主張し始めるように思われた。
そして、女に去られた男が、偶然女と再会し、女のアパートで会話する場面こそが、「作品としてのリアルさ」とは別種のリアルさと、作品としてあるべきリアルさとが、ぎりぎりの拮抗を実現している場面なのだと思われた。線路際の、不自然なまでに何もない抽象的ともいえる部屋にこの二人を置くことで、作品としてのリアルさが、作品としてのリアルさとは別種のリアルさと釣り合う強さを実現した。この場面によって、この、なんともデコボコして不均衡なフィルムが、作品として成立し得たのではないだろうか。
ここまで書いてきてようやく、ああ、そうか、カサヴェテスなのか、と気づいた。カサヴェテスの真似をしているということではなく、カサヴェテスを継承し、カサヴェテスを生きようとしている、というか。