●人に作品の写真を見せている時、この絵で、最初に手を入れたタッチはどれなの?、と聞かれることがあるのだが、ぼくはそれを憶えていない。ぼくの作品は、タッチにしろ線にしろ、まず最初に置かれたものがあって、それに対して次ぎのものが置かれ、その二つの関係に対して、三つめのものが置かれる、という風に、継起的に展開していって、一度置かれたタッチや線は、消されることも移動することもない。描き直しはないし、下書きとかアタリとか、そういう概念はない。最初にタッチや線を置く時は、その集積としての絵が結果として最後にどのような状態になるのかという明確なイメージもなく、一筆入れる度に、改めて次ぎの展開を考え直す。だから、最初にどのようなタッチがどこに置かれるのかというのは、その後の展開の全てに影響を与える最初の一撃で、その後の展開はそれに導かれてあるのだから、すごく重要だし、すごく悩むし、すごく考える。でも、タッチが三つ、四つ置かれる頃には、最初がどれなのか、既に曖昧になっている。極端なことを言えば、二つ目のタッチが置かれた瞬間、どちらが先にあったのかが、どうでもよくなってしまう。明らかに、最初のタッチが先にあって、それに対して次ぎのタッチが導かれるのだから、そこには時間の差と順番があるのだが、しかし置かれてしまうと、時間の差だけが残って順番が消えてしまう。というか、順番がみえてしまうようではダメだと思っているのだ。絵を観ていて、最後にこのタッチでフィニッシュ、みたいなのが見えてしまうのは、限りなく恥ずかしい。
制作には手順があり、それは入れ替え不可能である。あるいは、手順を入れ替えるということは、作品のありようを動かすということなのだ。しかし、作品からは手順が見えてはダメなのだ。というか、手順や継起的な展開そのものを見せたいのではなく、何か別のものを出現させるためにこそ、ある手順が必要となる。勿論、絵を観るのにも時間は必要で、視線を動かす順番というのもあるのだが、しかし、絵を描く継起的時間と、作品を観る継起的な時間の間には断絶がある。それは質的に異なるものだ。そこには断絶というより飛躍と言うべきものがあってで、いったんジャンプしてしまえば、それを描いた自分でさえも、その前のことは分からなくなっている。その前には戻れなくなっている。いや、絵を描くにも、絵を観るのにも時間が必要だが、絵が実現するものは、そのような継起的な時間の外に出ることなのだと言うべきかもしれない。いや、外に出ることは出来ないにしても、その外を一瞬垣間見せる、というのか。
とはいえ、囲碁や将棋で対戦後にその経緯を振り返るようにして、作品ができあがった後に、そこでタッチが置かれた順番を振り返ることは無駄ではないかもしれないとも思う。例えばビデオで制作をずっと撮っていれば、タッチの順番が事後的に確認できて、あそこであのタッチを入れたことで何かが動いた、とか、あの場面でこのタッチを置くべきではなかった、とかいう反省的な判断が可能になる。それは、スポーツ選手が自分のフォームをチェックするようなことかもしれない。
●いったん置いたタッチ、いったん引いた線は、動かすことも、消すこともしない、という縛りは、今のぼくにとって制作上で必要な制約だ。例えば、コンピューターを使って、どのレイヤーも、何時の時点ででも、いくらでも変更可能だというあまりに自由すぎる条件のなかでは、探求すべき何かを見つけ、それを保持したまま、それを辿ってゆく、ということが出来なくなってしまう。おそらくそれは、我々が限定された、死んでしまう身体をもっているということと関係がある。限定された身体をもつことで、その限定の上で、はじめてそれを超えた何かがあらわれる。限定がなければ、たんにメモリーの容量とか情報処理の速度とか計算の複雑さの問題になってしまうだろう。身体そのものが問題なのではなく、ある種の限定が、世界が受肉されるためには必要なのだ。とはいえ、今の自分の作品への縛りはちょっときつすぎる(狭すぎる)かなあという気もする。特にマティスの絵を観ている時など、すごくそう感じる。しかし、縛りをゆるめるには、それなりの自信が必要なのだ。