●リベットによれば、我々の知覚意識は、外界に対して常に0.5秒遅れているという。実験では、脳への電気的刺激が0.5秒以上持続しない場合、その刺激は受検者に意識されないらしい。つまり、脳の神経細胞は、0.5秒以上持続しない刺激は意識にのぼらせない。刺激が0.5秒持続してはじめて、人はそれを意識する。たんなる脊髄反射ではなく、脳による計算過程を経た反応でも、無意識の反応であれば、外的刺激から0.15秒程度の遅れで対応出来るらしいのだが、意識はそれからさらに約0.35秒遅れてやってくる。それはつまり、先に無意識のうちにからだが動いてしまってから、後付け的に意識がその根拠を構成するということだろう。私がこのように考えた、あるいは感じたから、このように動いた、というのではなく、先に、このように動いてしまったという事実から、その言い訳として「原因」としての意志-意識がねつ造される、と。原因-理由は事後的、遡行的に構成される。あるいは、無意識-思考の過程と意識-思考の過程とは常に食い違う。
このことは、我々の意識は、決して「今を生きる」ことはなく、意識にとっては現在すらも既に想起としてある、ということではないか。我々は現在を思い出しながら生きている。現在こそが想起である、というこの事実こそが、フィクションが力を持つ最大の根拠であるようにも思われる。現在が既に想起であるのだから、想起を構成する原理としてのフィクションの原理こそが、我々の生きる根拠をかたちづくっている。
現在が既に事後的な想起であるとすれば、それは、我々には何かが「起こった」その瞬間を捉えることが決して出来ないということではないか。例えば、我々が「生きる」のは、未だ自転車に乗れない時の、乗れるようになるための意識的努力の時間と、いつの間にか乗れるようになってしまっていたという事後的な発見の時間であって、自転車に乗れるようになったその瞬間は意識においては常に取り逃がされる。せいぜいが、自転車に乗れるようになった瞬間の手応えや感触を、事後的に構成し、思い出すことが出来るだけだ、と。何かが動いたその時、何かができあがったその瞬間は、それ以前と以後との落差や、あるいは事後的に構成され、思い出された感触としてしか、捉えることができない。まさに、この「感触」をよりよく構成するために、よりよく思い出すために、よりよいフィクションの原理が必要とされる。
だが例えば、ビデオカメラの映像は、私が自転車に乗れるようになったその瞬間を捉えることが出来る。これは驚くべきことではないだろうか。勿論、私がその映像を見るのは、乗れるようになった後のことなのだし、私はその映像もやはり0.5秒遅れて経験するのだから、私の意識においては、それもまた事後的に訪れるもの、諸々のフィクションの一つに過ぎない。しかし、映像は、事が終わった後に構成される「感触」とは異なり、まさに事が起こっているその瞬間に刻まれ、その瞬間が刻まれていて、それが反復されているのだ。意識-思考の過程とは常に食い違うであろう無意識-思考の過程の分析(意識的反省)には、だからやはり、実写映像という技術が必須だったのだろう(ここで昨日の話と繋がる)。