●『言葉の外へ』に収録されている樫村晴香保坂和志対談を久しぶりにじっくりと読み直してつくづく思ったのだが(十二年前にこの対談が載った「現代思想」が出て以来、これを何度繰り返し読んだことか)、前の本のあとがきにも書いたけど、ぼくの考えていることのほとんどは樫村晴香に負っているのだなあということだった。次に引用する部分の発言などが、今度出る本に載る文章を書いていた時に、ぼくが書こうとしていること(気にしていること)の方向性を、事前に決定してしまっていたのじゃないかとさえ思う。
《この、人称倒置の不能を生むのと同じ機制が、結局、自閉症の語結合困難を生むのだと思います。自閉症は名辞、そして動詞を獲得しても、語結合が往々うまくいかない。チンパンジーは多量の言葉を覚えても、常に "Mary give John Cookie"型の羅列文で、誰が誰にクッキーを渡すかわからないが、それと似ている。これはいわゆる軸-開 (pivot-open) 文法---例えば Mama gone, dog gone や dog here, dish here のように、置換可能部と軸からなる、子供の原始二語文モデルで、自閉症はその〈軸〉部分を欠いているせいだと思います。単語が結合し、ただの二語の並置でなく、一つの文になるには、この軸が重要で、ここが言語固有の演算の始点となる。犬や皿は人類学や認知工学で確証済みのように、言語や身体制御と無関係に視覚分節され、言語はその分節に後から上乗せされている。しかし「いっちゃった」や「ここ」は、認知的意味的にはいわば曖昧な空項で、他者に向けて音声として表出される局面に意味がある。つまり犬や皿の名辞部分は、表出された時点で演算は終了し、それに対し軸部分は、母体を掴むような身体表出なので、発話しながら相手の反応が観察され、その知覚が制御過程に内部信号と同等の資格で、一体となって回帰する。これは指さし呼称の過程でもあり、指さしは、皿と同時に他人の視線も知覚し、応答を聴取し、それを受けて発声運動を再分節し、しかもその発声分節を最初の皿の知覚記憶にも記載する。ベイトソンは、指さしを言語の基礎に措定したけど、しかしそれを分析哲学と同じように、名辞の相、語と物との対応として考えた。しかし指さしは述語・軸部に該当し、だから他人に頼まずさっさと皿を取ってしまう猿には、指さしがなく、人に皿を取ってもらうことさえない自閉症にも、指さしがない。原始述語としての軸部は指さしのように、身体と他者に従属し、遡及的変更に開かれている》
ソクラテスは人間だ、だと解りにくいけど、蝙蝠は動物だ、だと解りやすい。蝙蝠も動物も、どの人種も言葉がなくても似た概念を構成する。けど、蝙蝠を動物にいれるかどうかは人為的で、つまり蝙蝠の、翼に注目するか顔に注目するかは主語部分の視覚では決定できない。身体表出と似たように、述語部分で他者の同意を測りながら、主語の知覚の記憶の力点を調整する必要がある。だから蝙蝠と動物の関係は、原初的には集合の包含関係でなく、あくまで主述の関係で、つまり瞬間的に終了する視覚認知と、それについて他者の反応を見ながら身体的に表出-発話し、最初の知覚を調整する認知過程の、二つの認知の関係です。つまり論理学的に表記すると消えてしまうが、蝙蝠と動物の階層性とは、両者が語結合の上で要する認知コストの違いで、それが結果的に包含関係に結びつく。だからここで動物が主語になれないのは、それが広い集合だからではなく、述語の遡及的な演算に応えるだけの、認知要素をストックしていないからです。つまり述語の「瞬間」は、他者への表出-応答に依存する遡及的な、高コストの演算の瞬間で、しかしそれは、主語が視覚的には多くの認知要素をストックしていることで可能になる。》
《いずれにせよ、自閉症という反証から、主述の結合、文形成は、他者と連携した身体制御と類似していて、しかも語順は原初的には論理操作を規定するのが解ります。(略)例えば分析哲学ではフレーゲの「明けの明星は宵の明星」という表現形式が示すように、語順、つまり位置による演算コストの違い、という考えは元々ない。A=Bと同じで反対にしてもいいのです。でも普通の人間は「明けの明星は、明け方に見える宵の明星だ」と主語=知覚の遡及規定をするはずで、主述コストは違います。》(「自閉症・言語・存在」)