●「蝸牛」と「補陀落」(中上健次)を読んだ。一昨日の日記で、「蝸牛」を、中上健次が「中上健次」になった小説と書いたのは正しいと思うけど、「蝸牛」のあらすじとして書いたのは「補陀落」のあらすじだった。そして、岡田利規を想起させる語りをもった小説は、「補陀落」の方だった。
両方ともすごく良い小説だった。「蝸牛」で中上健次は「中上健次」になり、そして、その時に掴んだものを「補陀落」でおそらく意識的に捕らえ返して、展開させ、掴み直したのだと思う。中上健次と言えば普通『枯木灘』とか『千年の愉楽』とかが代表作とされるだろうし、それは正しいと思うけど、ぼくは、「蝸牛」「補陀落」そして「岬」が好きだ。それにしても、「蝸牛」から『枯木灘』まで、三年か四年くらいで到達してしまうというのは驚くべきことだと思う。
「蝸牛」は、それ自体小説としてとても面白いのだが、それだけでなく、これ以降の中上作品の展開との関係をみてゆくとさらに面白い。「蝸牛」の主人公の「ぼく(ひろし)」は、例外的にS市(新宮)の人ではなく、標準語を喋るし、この後繰り返し描かれる一族の一員ではない。ここでは、「ぼく」がヒモをしている女、光子こそがその一族の人であり、この光子がおそらく「補陀落」以降で描かれる三人の姉たちの一人(あるいは姉たちを複合して出来た人物)であろう。「一番はじめの出来事」や「補陀落」で康二と呼ばれ、後に秋幸へと発展する人物(弟)は、「蝸牛」では、光子によって、図体ばっかり大きくて、ごろごろとテレビばかり観ていて《あれは白痴やな》などとと言われている。つまり「蝸牛」では、この一族の外から、一族の話が語られている。
しかしとはいえ、この「ぼく」が、その後の康二や秋幸の原型であることも間違いないと思われ、それはこの「ぼく」が、実は《荒くれ男》などではないにもかかわらず、女である光子の好みによって「荒くれ男風」の格好をし、荒くれ男風に振る舞っていて、《光子の思うような荒くれ男に、じょじょに自分を変えて》いこうと思っているということからうかがえる。つまり、外から来たと想定される(標準語で喋る)ほぼニュートラルな性質の男が、物語る女たちの語りを反射するようにして、じょじょにフェイクの「荒くれ者風」にふるまうようになり、さらに、そのフェイクの荒くれ者風のイメージが、テレビを観てごろごろしてばかりいる、姉から《あれは白痴やな》と言われるような男=弟へと投射されることで、秋幸という人物像ができあがった、ということなのではないだろうか。そして「蝸牛」は、この荒くれ者風の男が、荒くれ者であろうとして失敗し、その行為が空転するところで終わるのだが、このこと、つまり、荒くれ者があくまでフェイクであること、そして、フェイクの荒くれ者は、荒くれ男へと《じょじょに自分を変えていく》ことにも決して成功しないこと(荒くれ男たる行為に失敗すること)、は、どちらも中上健次のすべての小説を通してとても重要なことだと思われる。荒くれ男は、「女たち」が果てもなく繰り返し語る(語り直す、語り変える)物語に保護され、それを反射することによってしか荒くれ男であることが出来ない甘ったれた男たちである。そのことこそが「蝸牛」に書き込まれているのではないだろうか。