●昨日の日記に「散歩に行こう」と書いたのに、今日もけっきょく一日ずっと本を読んでいた。今日中には読み終わらないとやばいから。朝早くから昼過ぎまでマックで読んで、いったん帰ってすこし昼寝して、夕方から閉店時間までいつもの喫茶店で読んだ。閉店時間まででも読み終わらず、部屋に帰ってから最後の数ページを読んだ。とても面白い本だったのだが、もし、この本について書くという前提がなければ、最後まで読んだだろうか。読んだかもしれないし、読まなかったかもしれない。二度目、三度目ならともかく、最初に、それについて書くという前提で読んでしまったからには、もう、そうでない時のことは本当にはわからない。それが良いとか悪いとかではなく、この本とはそのようにして出会い、そのような状況のなかで読んだ、ということの「偶然であることの絶対性」は、もう消えない。
ある本を読んで、とても面白いと思って、誰に頼まれたわけでもないのに、例えばこの日記に長々と感想を書いてしまうことと、この本について何か書いて下さいと言われて、はい、分かりました、と言って、本を読み、それについて何か書くということの違いは、「読む」「書く」ということの経験の質をかなり大きく変える。だが、本を読むということは、かなりの労力を要する行為だから、人との約束のもつ強制力のおかげで自らの怠惰さを克服出来るという点はとても重要で、実際、この本の書評を引き受けたのも、そのような強制力のもとになければ、この本を最後まで読む機会はもしかしたら一生訪れないかもしれないと思ったからなのだ。理由や動機はどうあれ、とにかく実際にそれを読むということが重要だということもある。
で、とにかく最後まで読んだ。