●お知らせ。「新潮」2010年1月号に、ガルシア=マルケスの自伝『生きて、語り伝える』の書評(「デコボコなエピソードの間を移動する」)を書いています。
●一方に利部志穂がいて、もう一方に、最近はじめて観た郷正助がいる。利部志穂の作品が、誰にも似ていない「利部志穂というジャンル」であるようにみえるのと対照的に、郷正助の作品は、ケレンのまったくない、きわめてオーソドックスな、生真面目な「良い絵画」である。そして、二人とも八十年代生まれの二十代であることを考えると、それだけで、今後十年くらいの美術に対して、とても明るい希望がもてるように思えるのだ。とはいえ、美術をめぐる「状況」(主に経済的なもの)については暗い話ししか聞こえてこないし、現代美術の評価のトレンドが、ぼくが好ましいと思うような方向へとシフトしてゆくことはまず考えられないのだけど。しかし、はるかに年下の作家の作品に、「完全に負けてるじゃん、自分」と感じ、そこから強い刺激を受けることが、こんなにも「明るい希望」に繋がるのだとは今まで知らなかった。
大学を出てからずっと、「美術」の「現在」と、ぼくにとっての自分自身の関心のあり様とが完全に乖離してしまっているという認識をもってやってきた。そしてそのことについてはとんど諦めのような感情をもっていた。だって今の美術なんてまったく面白くないんだから、みたいな、半ば強がり、半ば拗ねたような感じで。しかしここ何年か、主に二十代や三十代の作家の作品で、あれっ、と思うような面白いものを(少しではあるが)発見するようになって、なんか空気がかわってきたんじゃないか、という感じをもつようになっていた。これは、ぼくが歳をとってきて、かたくなな態度を保つ体力がなくなってきたということもあるかもしれないけど、しかしそれだけでは決してなく、明らかに空気がかわってきた気がする。若い人のつくる作品の質が全体的に底上げされている、とか、全体の傾向がいい感じになってきた、ということではまったくなくて(そういう風には全然思っていない)、あくまで、ぼくにとっていいと感じられる作家や作品が、ぽつりぽつりとみられるようになってきた、ということなのだが。
●美術においては(というか美術に限らず)、もはやすべての人に共有され得る(共有することが強いられる)「問題」は存在しない。(だからそれが一見「新しい」ものにみえるとしても、新しい現象を対象としたものだとしても、ある「問題」を設定することで「現在」という像を浮かび上がらせようとする言説はすべて「古い」。)美術史は、正当化された唯一の物語-言説としてあるのではなく、鑑賞-制作の度に、それを行う一人一人によってその都度発見される(発見-創造される)、過去からの水脈-系譜としてのみ顕在化する(事前に正当化された唯一の物語が成立しないのだから、それに対して「抵抗する」オルタナティブな物語も成立しない)。だから、これについて知っていれば、仲間内では一応話しが通じるといった共通の話題は(一般教養のようなものは)どこにもなく、それぞれがそれぞれの場所で、それぞれのやり方で、それぞれの仕事を孤独に深めてゆくしかない(ここまではごく一般的なポストモダン的認識に過ぎないが)。そしておそらく、その孤立したそれぞれの仕事の間に何かが通じるとしたら、偶然に、いきなり、通じるのだ。芸術を信じるというのは、その「偶然に、いきなり」を信じるということだと思う。勿論、その「偶然に、いきなり」が成立するためには、その下地として、それぞれによる、それぞれの仕事の掘り下げが、その深さと強さがあった上でのことなのだが(問題は、この「孤独な掘り下げ」を可能にするものは何なのか、ということなのだが、これもまた一般化することは出来ず、それぞれ違うと言うしかないのではないか)。
共有される問題が消え去った時にはじめて、作品が「作品」としてあらわれる。空気がかわったという感じは、そういうことなのかなあと思う。