●二万年前に洞窟に描かれたものも、ついさっきキャンバスに描かれたものも、同じように「絵」として観ることができる。マティスによって描かれたドローイングも、テレビで観た、芸能人がフリップにマジックインキで描いた線画も、同じように「絵」として観ることができる。この驚くべき「かわらなさ」こそが絵画の力であり、この、どこまでもかわることのない退屈な強さに寄り添い、その都度それに驚くことを繰り返せる人だけが、絵画とともにあることができる。それに耐えられない者だけが、「あたらしさ」を必要とする。
平面に、それ自身とは別の意味を生じさせる何かが刻みつけられるという行為が行われるたびに、その都度、繰り返し、絵画を成立させ、人に絵画を生み出させる、根本的な力が反復される。レシートの切れ端にぐちゃぐちゃっと書かれるメモ書きの線の踊り、あるいは、手帳に書き込まれる色のついたマークが生む感情。それは、何万年も延々と繰り返されてきたものの相変わらずの反復であると同時に、その都度の更新でもある。それは、誰かが、昨日あった出来事を別の誰かに喋るという行為のなかに、演劇を可能にする力が既にあり、逆に、演劇はそのような行為が何故か成り立ってしまうという事実のみに、実は支えられているのだということと同じであるような気がする。
Aが言ったことを別の誰かに話すとき、思わず、Aの口調や身振りがほんのすこし感染してしまうこと。わたしの口調にほんのすこし混じるAの口調、わたしの身振りにほんのすこし混じるAの身振り、そこにこそ、(演劇や文学だけでなく)絵画のたちあがる力の萌芽があるように思われる(そのとき、語っているのはわたしなのかAなのか、それとも、どちらでもない第三のなにものかなのだろうか)。それは、延々繰り返されてきたことであると同時に、その都度、あらたにたちあがる力でもある。その力のみを根拠とし、その力のみに従うこと。
外から与えられる「あたらしさ」を徹底して軽蔑できるだけの力をもつこと。