●昨日の日記を間違えて今日の日付でアップして、それに気づいて16日のところにあらためてアップし直したのですが、17日のところに既に☆のマークをいただいていたので、こっちも削除しないでこのまま残し、今日の分の日記は、あとでその下に付け足すことにしました。
というか、ぼくのパソコンでは☆マークは見えないのですが(だから、前ははてなからのお知らせメールの意味が分からなかった)、はてなから17日分の日記に☆をいただいたというメールがあって、えっ、17日の日記なんてまだ書いてないじゃん、これは未来からのメッセージなのかと思って(本当は、あっ、間違えたんだと思って)確認したら、案の定、日付を間違えていました。
以下は16日分の日記。
●編集者と会って、直したゲラを渡した帰り、ホームで電車を待っていた。電車が入ってきて、停まり、目の前のドアが開く。するとそこから、森永卓郎が降りてきた。テレビで観る、(おそらく首に肉がつきすぎているために)顎を軽く上げ、軽く半笑いな表情の、あのまんまの感じで。
●その直前に編集者に、大江健三郎はイベントなどがある時、車を出しますと言っても、いいですと言って、電車に乗って来て、電車で帰るという話を聞いていた。でも、携帯電話をもたないので、遅れたりすると待っている方はひやひやするという。集中して本を読んでいて、全然違うところに行ってしまうことがあるらしい。へー、大江さんが普通に小田急線とか乗ってるんですね、と当たり前のことに感心した。当たり前のことだけど、なかなかイメージしづらい。電車のなかで有名人を見かけることありますか。いや、ないです、たぶん八王子近辺にはあまりいないんじゃないですか。しかし森永卓郎がいた。
●前にも似たようなことを書いた気がするけど、最近すごく気になるのは、ある概念なり、その概念を的確に示す言葉なりが示されて、それによって、混沌としていたものに見通しがたったように見えたり、世界の見え方がまったく違ったりする時、しかし、その見通しの良さによって強いられるフレーム(構図)が、かえって人を縛ってしまうということだ。確か、八十年代はじめ頃の糸井重里が(栗本慎一郎との対談でだったと思うけど)、たとえば柄谷行人を読むと、「転倒」だとか「風景」だとかいう言葉が今までとはまったく違ってみえて、そのこと自体はすごく魅惑的だけど、でも、それによってかえってその言葉が使いづらくなって、どんどん不自由になってゆく気がするというようなことを言っていたと記憶している。その「風景」って、柄谷を踏まえた「風景」なの、それともそうじゃない方の「風景」なの、みたいに、どんどん事前に共有される(確認される)べき前提が積み重なっていってしまって、ひらけたはずの見通しによって、かえって風通しが悪くなってしまう、というようなことだったと思う。
ここで問題なのは、事前の前提の積み重ねが悪いというのではなくて、それが「共有されるべき」であると強制されることにあると思う。そのような強制の力が人々の間で作用してしまうことが、ものごとをどんどん鬱陶しいものにする(つまり、状況に対して自分が何らかの影響力をもち得ると思うことそのものが、場の鬱陶しさを招くのではないだろうか)。何かを考えること、あるいは生きることは、果てしなく「事前の前提」が積み重なってゆくということであり、それ自体は必要だし不可避なことだ。だから、それぞれの決して共有されない「事前の前提」を、それぞれが孤独に積み重ね、掘り下げて行けばよいのだし、それしかないと思う。それじゃあ他人と何も通じるものがないじゃないかということになるが、多分、そんなことはない。Aという分野の専門家とBという分野の専門家とで、事前に共有されている知的背景が何もないとしても、二人の間に何かが通り抜けることがある。優秀な運動選手と優秀な職人との間に、それぞれがもつ技術体系にまったく共有される部分がないとしても、その二つの体系の間に何かが通り抜けることがある。逆に言えば、希望はそこにしかない気がする。
例えばアカデミズムというのはおそらく、そのような事前の前提を、ある閉ざされた集団によって果てしなく精緻に組み上げてゆくことなのではないか。それ自体、きわめて貴重な、尊重されるべき行いだ。しかしそれは必然的に、その外部との交通を困難にする。でも、おそらくそれでいいのだ。選ばれた優秀な専門家が一生かかって研究することが、簡単に素人に理解できるはずがない。問題なのはそれを、「分かるように説明(要約)しろ」とか、逆に「お前らこの程度のことは常識として分かっておけよ」とかいって共有が強制されることなのではないだろうか。そういう考え方のことをマッチョと言うと思う。
●「新しいもの」をつくりだすのは、人ではなくて時間そのものだ。何かを更新すること、アップデートすることは、時間そのものの仕事であって、人の仕事ではない。人がすることは、それぞれの「事前の前提」を深く掘り下げることであって、それを先に進めることではないと思う。そして、それぞれのそのような行いが、時間がつくりだす「新しさ」と、出会うのか出会いそこねるのかは、偶然とか運命とか言うしかないものの範疇にある。でもそれはきっと、たいした問題ではないと思う。
●ここから下は17日分の日記。
●永瀬さんの「組立」のブログ経由でこれ(http://togetter.com/li/1905)を覗いてみた。なんか面白かった。
ざっとみただけだけの粗い感想で論点や文脈がちゃんと把握出来てないかもしれないけど、構図と画像・画素という対立の「構図」や、構図を越えて生成する画像・画素や粘菌というイメージだと、構図と画素の中間にあって、どちらにも転び得るけど、どちらにも転び切らない「形態」という次元が見えてこない気がする(形態って言い方はよくないけど、他に何て言っていいか分からない)。オセロゲームみたいに、ほんの一手で白が黒に一部反転したり、赤い色面のなかを占める小さな面積でしかなかった黄色い色面が、視線の動きひとつでいきなり拡大したり、拡散したりするという、絵画にとってもっともスリリングな「形態が動く」感じがとらえられないように思う。これを図と地の反転みたいな言い方にしてしまうとどうしても構図に拘束されてしまうけど、逆に、粒子的、生成的なイメージの画像・画素や粘菌というイメージだと、こんどはポロックがどうしても越えられなかったオールオーバーの罠(引いて見ると単調になってしまう)から抜けられなくなる気がする。その一つ一つの画素の裏側にデータベース的な個別の記憶へつながる通路があるとか、そういうイメージだとすれば(ミケランジェロ北斎)ポロックなんかとは根本的に違うのかもしれないし、それだったら一定の密度と複雑さは得られるとは思うけど、それでもやはり「動き」が単調になってしまう感じがする(絵画としては、ということで、ゲームとかだとまた別かもしれないけど)。
画像・画素っていう言い方で素朴に思い浮かぶのはセザンヌのタッチだけど、セザンヌがすごいのは、構図かタッチかという対立(あるいは両極の同時並立性)ではなくて、常にどちらでもないその中間こそが問題になっていることで、それによって部分と全体みたいな問題をすり抜けていることだと思う。
だからやはり、ごく普通に、複数のフレームの間にあって、その隙間で発生し、また逃げ去ってゆく、形態の運動を捉えるっていう方が、ぼくは面白いんじゃないかと思う。構図か画像・画素か、ではなくて、たんに複数の構図が(同一画面に)同時にあるってことでいいのではないだろうか。で、その隙間に形態がある、というか、形態が動く。形態っていう言い方はやはり問題があるけど、ここで言う形態は、細部ではあるけど、あくまで「結果として見えてくるもの」で、決して固定した基本単位(部分)にはなり得ないもののこと。セザンヌの、タッチそのものではなくて、タッチとタッチとの関係やズレによって見えてくるもの。ズレとか言っちゃうと、またそれっぽすぎるけど。フレームの間を走り抜けて、一瞬見えた気がするけど、幻だったかもしれない、みたいな。つかめないものだけど、何度も回帰したりするもの。手垢がつきすぎた言葉だけど、イリュージョンと言ってもいいもの。これは、あくまでぼくの関心のあり方としてそうだということでしかないけど。