山崎ナオコーラ「この世は二人組ではできあがらない」(「新潮」12月号)。これはすごく面白かった。センスの良さと、関係における倫理性の追求という主題の骨組みだけで出来ていたような『人のセックスを笑うな』からずっとつづく主題的な一貫性を保ちつつ、この小説では細部のふくらみと作品としての強さが飛躍的に増しているように思われた。書くことそのものが人を導く、ということなのだろうか。小説家ってすげえな、と思った。というか、小説ってすげえ、と言うべきなのか。
この小説のすごいところは、描かれている事柄自体は「ものすごく普通だ」というところにあると思う。登場人物たちのあり様も、話の中心となる栞と神川との関係も、登場人物たちの大学生活と卒業後にぶつかる現実も、小沢健二フィッシュマンズ、「オリーブ」といった文化的な参照項も、時事的な出来事の取り扱いも、どれをとってもびっくりするくらい普通のことだ。特異な人物や状況が扱われるわけでもないし、深遠な思考が語られるわけでもない。日常のなかのきらきらした細部が拾われるわけでもない。しかし、ごく普通であるとしか言えない、ある関係のあり様が、凡庸であったり退屈であったりすることからほど遠い、びっしりつ詰まった密度のある内実を備えているという、そのことこそが正面から問題とされているように思う。
ごく普通の若い男女が、大学を卒業した後に直面する出来事や、その関係の推移が、ごく普通に示されていることが、これほどのふくらみと強さをもって迫ってくることのすごさ。作品というのはどうしても、際立った形式、際立った出来事、際立った思考、際立った感性を誇示しなければ成り立たないと思いがちで、しかし大抵、その「際立った」ものへの指向性こそが凡庸なものなのだが、ここでは、ごく普通の人物が、この社会のなかでごく普通に存在するということの具体的な手触りや内実が、妥協のない生真面目さによって追求されている。その内実が正確に捉えられれば、際立った要素などなくても、小説として際立ったものになる(それを可能にしているものは、際立ったセンスの良さだと思うけど)。だから、何気ない日常が淡々と描かれるというのともまったく違って、際立ったところがあるわけではないある一つの関係が、あるいはある人物(たち)のあり様が、異様なまでに厳しく、鋭く、深く、問われている。ほとんど、「問い詰められる」かのように。そして、それがどれだけ貴重なことであるかということもまた、この小説を「読むこと」によってはじめて知らされる。
この小説は、素朴に読めば「山崎ナオコーラが作家になるまでの話」として読める。そしてまさに、ここに描かれている(きわめて普通の)関係こそが、あるいは、その関係を「問い詰める」ことこそが、山崎ナオコーラを作家にした、ということなのではないだろうか。しかしそれは、ここに書かれていることがどの程度事実に沿っているのか、とか、そういうこととはまったく別の次元でのことなのだが。
普通であることは、典型であることとは違う。典型というのは、一定量あつめられた普通から抽出された抽象的なもので、この小説では、あるありふれた関係の描出が決して典型の提示に堕することのないような具体性への厳しさが、終始張りつめているように思う。その精度にこそ、この小説の際立った点がある。きちんと普通であることは、凡庸さから最も遠い。安易に読者の共感を誘うような「あるあるネタ」的なものは避けられている。常に動いているような二人の関係のうつろいは決して読者を「ありがちな納得」へは着地させない。山崎ナオコーラは、人物たちの関係のあり様についてきわめて厳しい作家で、だからぼくはその小説を読むときいつも緊張してしまうし、時々その厳しさがつらく感じられる時もあるのだが、この小説では、その厳しい追及の切れ味をまったく鈍くすることなく、しかし厳しさがある一定の閾を突き抜けることで、やわらかさとかひろがりという感触にまで達しているように思われた。厳しさの精度と具体性(ひとつひとつの細部の冴え)が増しているというだけでなく、その点からも、この小説はこの作家にとって大きな達成であるように思う。
一読しただけなので、細かい点まではどうこう言えないけど、トリッキーな記述や、時間と空間を自在に操るような、この作家の「華々しい才気」の部分は抑制され、そのかわりに、簡潔に提示されるひとつひとつの言葉や、エピソードの配置がきびしく吟味されているという印象を受けた。すごく読み易いけど、決して流して読むことが出来ない。さーっと流れるようでいて、決して流れずに留まり、垂直に刺さってくるものが多々仕掛けられている、というような。