セザンヌは、故郷の山や森を歩き回るのと同じくらい、ルーブルのなかを歩きまわる。だからセザンヌには当然、広くて深い美術史の教養がある。しかし、セザンヌの絵を観るためには、特に美術史的記憶は必要とされない。セザンヌの筆触は、それを観る者に対して、その背後にひろがる美術史の記憶、イメージのアーカイブの共有を強要しない。そこにあるのはイメージの多様な組み合わせではなく、ある筆触から別の筆触への、移りゆきであり、振動や摩擦であり、ズレや断絶であり、関係や無関係である。それは、セザンヌと記憶を共有しない、まったく異なる者の別の記憶へと、ある種の波動やグルーヴとして、あるいは偏りや歪みとして、アーカイブを媒介せずに(というか、貧しい、最小限のイメージの媒介だけによって)、目を通して直接侵入する。描かれるのは、ありふれた山であり、リンゴであり、人であり、それで十分なのだ。セザンヌの筆触のバロックは、例えばミケランジェロ的なマニエリスムの多様性からは切断されている(しかし勿論、そこにはなおイメージや形態があり、つまり抑圧-集約が作用しているだろう)。
ベケットがとてつもない教養の持ち主であったことに間違いはないだろうが、しかし、そのベケットが書いた小説を読むのに、文学史的な教養は必要ないし、あったとしても大して役にたたないだろう。それは、なけなしのまずしい記憶、まずしい身体、まずしい言葉によって組み立てられる。だから、ただそれをそれとして精密に読み込もうと努力するしかないだろう。それはまず、まずしいイメージとして受け取られる。だが、まずしい意味のなかに含まれる、強く、多様な振動として作用するだろう。それはおそらくジョイスアーカイブの真逆を行くものだ。
ミケランジェロよりセザンヌの方がえらいとか、ジョイスよりベケットの方がえらいなどと言うのではない(それはけっきょく裏表であり、どっちもえらいに決まっている)。どっちがえらいとかどっちが新しいとか、そんな競争に興味はない。ただ、文化の厚みや、その背後にある豊かな記憶(イメージ)のアーカイブの共有を期待できない時、つまり、みんなの共有財産がすっからかん干上がってしまっている時、このような貧しさにこそ、何かを突破する希望があるように思われる。それは、意味、物語、アーカイブの豊かさよりも、その背後にある物質的世界、身体、(共有されていない)記憶の深さの方へと向かって行く。とはいえ、我々(つまり意識)は、イメージや意味を媒介とせずに、直接、物質や身体に触れられるわけではない。媒介のあり様は常に最重要課題であろう。
ある記憶の深さ(身体)と、まったく切り離された別の記憶の深さ(身体)との間に、何かが、串刺しのように貫通することが夢みられる。その時、ふたつの記憶に共通の地盤がほとんど成立していないとすれば、それを媒介するイメージは、必然的にまずしいものとなるだろう。まずしさはひろがりではなく深さへ向かう。まずしさは無限の生成(可能性)を切断するが、まずしさには、複雑さと深さが含まれている。なによりも、かならず死んでしまう我々の生-身体こそが、まずしさを必要としているのではないか。