●『水死』(大江健三郎)。この小説をこれから読もうと思っている人は、これ以降を読まない方がいいかもしれません。
ぼくは、前に書いた(本に収録されている)『アナベル・リイ』論で、これは女性が男性を糾弾するための話ではない、というようなことを書いたのだったが、『アナベル・リイ』のサクラさんとは異なり、『水死』のウナイコは、はっきりと男性を糾弾する強い意志をもつ人物で、だから、男性の読者であるぼくが、それを居心地の悪さとともに読むのは当然のことで、だから、ウナイコの人物造形が魅力的ではないとぼくが感じることが、この小説の批判の根拠にはならないだろう。ここで作者は、『アナベル・リイ』に足りなかったものを、積極的に付け加えようとしているのだろう。
とはいえ、ウナイコがつくる「死んだ犬を投げる」芝居が、演劇として面白いものだとは到底思えないし、何より、一見民主的-対話的であるようでいて、実は作り手側の強い操作性が隠蔽されているという点でかなり悪質なものに思えること、それに、ウナイコの「かれ」であるとされる桂という人物が、普通に失礼で嫌な奴としか思えないように書かれていて、「ああ、こういう男とつきあう人なんだ」と引いてしまうことなどから、やはりウナイコという人物をすんなり受け入れるのはむつかしい。だから、そのようなウナイコを中心としてかたちづくられる女性たちのネットワーク(アサさんやリッチャンなど)の活動にも、一定の保留をつけないと読みすすめられない。
それに、ウナイコが強姦されたという事実が、最後の方まで伏せられている(途中でなんとなく匂わされはするけど)というプロットにも疑問を感じざるを得ない。そういう話は、話者である主人公との関係が深まり、ある程度の信頼が双方に生じるまで出ては来ない、ということなのかもしれないけど。しかしそうだとしても、靖国神社での嘔吐のエピソードが(別のコノテーションのもとで)先に語られ、後になって、後出しジャンケンみたいに、あれは妊娠していたんだ、という話になるという「伏線」の張り方には、どうしてもひっかかる。そして、ウナイコを強姦したのが、元文部省の要職にいた官僚だというのも、それはいくらなんでも…、と感じてましう。
このように、否定的な点を挙げることはいくらでも出来るるし、一定の抵抗なしには読み進められないのだが、にもかかわらず、『水死』という小説には圧倒的な面白さがあり、いくつもの異なる力が小説に内包され、交錯し、響き合い、屈折し合う、その文の連なりに触れると、大江健三郎という作家の「大きさ」を感じる。内容の次元で、権力と民衆、男性と女性、中央と地方、右派と左派、舞台と観客席、父と子、等々の、二項対立的な構図がどうしても感じられてしまうところなど、正直、近代文学的な古さを所々で感じてしまうのだが、しかし、それが、あの複雑に屈折した語りによって、いくつもの主題が重ね合わされるように記述されるうちに、(つまり、「書く」という現場において)しだいにぐずぐずになってゆき、単純な対立構造を、複雑な力が抗争する場へと変質させてゆく力業は、読んでいてきわめてスリリングだと感じ、感嘆させられる。書くことの力は、この小説にある二項対立の構図だけでなく、この小説以前に書かれた別の小説の意味さえ変質させる力をもつかのようだ(自作の批評的な読み替えというより、むしろ、書くこと--書き足されることによって読み替えられる、かのようだ)。小説家だからこそこのように書けるのだ、というか。ある意味、きれいにまとまっているとも言える『アナベル・リイ』よりも、扱われる主題が広い分、屈折やノイズや停滞にみえるところも多く発生していて、それが面白くもあるのだが、だからこそ一方で、それと拮抗するように、ウナイコのような、(やや単純すぎるようにも思えるのだが)展開を強くひっぱる役割が必要とされたのかもしれないと思えば、そのキャラクターにも必然性があるのかもしれない。なにより、「この小説の主題は要するの○○だ」などとは絶対に言わせない渦巻くような力のうねりこそが示されていて、そこに圧倒される。
しかし、とはいっても、ぼくにはこの小説の第三部の展開がよく分からない。分からないというのは一読しただけでは納得出来ないということであり、これを、この形のまま受け入れることが難しい、ということだ。第二部までに展開されてきた多くの主題を中途半端にまとめようとしているようにも感じられるし、もう一方で、中途半端に「事件」が起き、物語が動きそうになったりする。当初、父の話だったはずの小説が、中盤以降まさに「女たちが優位にたつ」話となって、しかし最後の最後で再び、「男たちの物の怪」へと回帰して終わるのだが、そしてその事自体は納得出来るのだが、この、最後の男たちの物の怪による押し返しの具体性が弱いようにも感じられる。いや、それは逆で、強くなり過ぎる、ということかもしれない。当初、主人公と父との関係を記述するはずだったモチーフは頓挫し、それは、一方で、主人公と息子の関係、もう一方で主人公とその分身であるコギーとの関係へと分散してゆき、そこに、父の弟子だった大黄という人物が、父のもう一人の(精神的な)息子として登場することでさらに分散してゆく。そして父の「物の怪」を受け継ぐのは、主人公ではなく大黄だ、という展開になるのは理解できるのだが、それがラストに置かれることで、強調され過ぎて、あたかもそこに結論(例えば、コギー=物の怪=大黄、みたいに)があるかのように作用してしまうところが、納得できないのかもしれない。
あと、『アナベル・リイ』では恩師の死、『水死』では父を描こうとした小説の挫折という、主人公の失意(仕事への動機や仕事の意味の消失)を、サクラさんやウナイコという「強い動機」をもった女性がやってきて主人公を巻き込むことで、再び仕事への情熱を回復させてくれるという点で、この二つの小説はまったく同じなのだが(そして、それが主人公だけでなく、そのまわりの女たちや、息子にとっても、ある希望を与えてくれるという点も同じなのだが)、『アナベル・リイ』のサクラさんの映画が、様々な問題を含みつつも、一応完成するのに対して、ウナイコの「死んだ犬を投げる」芝居は、事件によって実現不可能になってしまう。このことは、小説を書いている大江健三郎もまた、書き進めながら、ウナイコの強引なやり方をどこかで信頼し切ることが出来なかったということを表すのではないか。しかし、そうだとしても、ウナイコが、最後に再び被害者となってしまうところで終わる、というのは、ちょっと納得するのがむつかしい。当然、右派や伯父からのなにかしらの攻撃は予想出来るし、ひともんちゃくあるだろうとは誰もが予想するだろうが、事件によって公演が中止になるところで終わってしまって、ウナイコの存在がフェイドアウトしてゆくという形で終わるのは呑み込むのがむつかしい。
そもそも、大黄の行為-殉死と、ウナイコの表現や糾弾は、まったく異なる来歴と動機による(あるいは、まったく別の「物の怪」による)、まったく異なる二つの系列にあって、大黄の行為はウナイコを救おうとしたものではないし、実際、その行為はウナイコの表現行為の障害にこそなれ、ウナイコを救うことにはまったくならない。大黄が小河を殺すのは、大黄自身の問題の帰結であり、また、幾分かは古義人の問題でもあるが、ウナイコの問題ではまったくない。大黄の行為は、大黄や古義人にとっては意味があるが、ウナイコや女たちにとっては何の意味もない。そこを:決して混同させることなく、複数の系を絡み合いを丁寧に書き込んでゆくところがこの小説の偉大なところだと思うのだが(二項対立的であるとはいえ、例えば男性と女性、老年と若年とは、決して一方に統合されることがなく、緊張を孕んでいることの意味はとても大きいと思う、勿論、それがあくまで男性で老年の視点から記述されているのだが)、小説がここで終わってしまっては、女たちの「物の怪」は未来へ向かう(あるいは一揆という抵抗へ向かう)が、男たちの「物の怪」は消滅-(時代の精神への)殉死に向かうという、すごく陳腐な「結論」になってしまうのではないだろうか。「晩年の仕事」が孕むカタストロフィというのは、たんに(国家に抗し、時代の精神に殉ずる)「殉死」でしかないということになってしまうが、大江健三郎は「それでいい」と思っているのだろうか。なにより、コギーという魅力的な分身のイメージが、父-大黄という「殉死」の系列の側に回収されてしまうことを受け入れるのはむつかしい。
アナベル・リイ』は、主人公の分身である木守がまるで主人公の身代わりのように死をむかえるところで終わる。同様に、『水死』も、主人公にとって、父のもう一人の息子(父の精神的な継承者)であり、分身(コギーの憑坐)である大黄の死が示唆されるところで終わる。どちらも、主人公の死は身代わりが引き受け、「わたし」は生き残る。逆に言えば、「わたし」は依然として「ここ」に取り残されている(私は決して「殉死」などしない)。『こころ』で言えば、《私》は、遺書を書く先生の側にいるのではなく、それを読む側にいて、「こちら側」に留まる。つまり、小説はまだ終わってはいない、と受けとめるべきなのかもしれない。
●全体としてどうだ、というのとは別に、九章の「晩年の仕事」がとても面白く、この章は二回繰り返して読んだ。この章には、この小説で最も重要な要素が凝縮されているように感じられるし、大江健三郎特有の、あの「分かりづらい書き方」でしか書けないことが、書き込まれているように思う。この章を読むと、複数の主題が絡み合うこの小説のなかでも、中核にあってその持続を支えているのは、古義人とアカリとの関係であるように感じられる。