●お知らせ。「群像」2月号に、「わたしは知りたかった/柴崎友香『ドリーマーズ』論」を書きました。『人はある日とつぜん小説家になる』に収録されている柴崎友香論のつづきでもあります。『ドリーマーズ』(特に表題昨の「ドリーマーズ」)という作品で、柴崎友香という作家は、もはや元には戻れないような別の地点にまで突き抜けてしまったように、ぼくは思います。
●昨日読んだ『海辺へ行く道 夏』があまりに良かったので、もう一冊出ている三好銀の本『いるのにいない日曜日』を買ってきて、読んだ。こちらもすばらしかった。この作品は、91年から94年に描かれたそうなのだが、その頃ぼくは二十代前半の学生で、リアルタイムで読んでいたら、ぼくにはこの作品の良さが理解出来なかったかもしれないなあ、と思った。はてなキーワードによれば三好銀は55年生まれだそうだから、これを描いていたのは三十代後半ということになる。なんというか、気持ちの若さを失わないまま、その年齢になった人にしか描けない作品だという気がする。ここで言う気持ちの若さとは(無理した若作りで新しさを追うみたいなことではなく)、気楽さとか、軽さとか、鷹揚さを失わないというような意味なのだが。つまり、学生の頃と変わらない気分のまま、三十代後半までいった人という意味で、それは実際の学生とはやはりかなり違っていて、これは決して若い人には描けない作品だと思う(むしろ、2009年に描かれた『海辺へ行く道 夏』の方が若々しい感じがする)。人は、ある年齢になると、いきなり何かに目覚めてしまって(社会性とか使命感とか?)、このままではダメだとかちゃんとしなくちゃだとか言って焦ったり、自らの重さを(別に体重ということではないが)、ふいに感じて深刻になってしまったりするのだが、この作品に貫かれているのは、そのような罠への、静かで強い拒絶の姿勢だと思う。
「知らない番地」とか「静かなおみやげ」とか「北風番地」とか、本当に良くて、思わず何度も繰り返して読んでしまう。繰り返し読めば読むほど、面白さが増してくる。『海辺への道 夏』でも『いるのにいない日曜日』でも共通して飛び抜けているのは、この作家の空間に対する感覚だと思う。それは、地図が読めるとか、ジャングルジムが得意とかいうような空間把握力であるよりは、可視化出来ない空間への構想力(想像力)とでも言うべきものだろう。『海辺への道 夏』では、それは主に、空間の切断と接合(モンタージュ)においてあらわれていたと思うのだが、『いるのにいない日曜日』では、実際には絵に描かれていない、コマとコマとの間にある潜在的な空間への豊かなひろがりとしてあらわれているように思う。描かれている、見えている、風景、人物、物、猫たちが、実際には見えていない時にも存在していて、その、見えていないところでたくさんの出来事が起こり、出来事間の複雑に絡まる関係があって、そのごく一部分だけが、絵として、ページの表面にあらわれている、というような。だから、ひとつのコマは、ひとつのフレームであるよりは、複数の出来事が交差する交差点のようなものであろう。電車が通り、風が吹き抜け、猫がはしり抜け、夫婦が行き交い、近所のおばさんが訪れ、不可解な人物が不可解な振るまいをする。猫の発情が夫婦の部屋(日常)をそのまま連れ込み宿の部屋へと移行させ、風が遠近感を狂わせることで夫婦を遠くの公園まで運び、小学生の作文と雑草の種が無口な義兄を喋らせる。顕在化する出来事は、潜在的な無数の出来事が重なることで起こり、そして我々が目にするその顕在化した出来事もまた、別の視点からみれば、無数の潜在的な出来事の重なりのひとつでしかない。一コマ一コマの背後に、そのような無数の出来事の重なりが可能であるような、決して形象化できない場-ひろがりを想像させる力が、この作品にはある。視点は常に限定的であり、全体を捉えることは決してないが、その限定的な出来事は、背後の無数の出来事のひろがりや複雑さを感じさせる徴候に満ちている。気軽さ、軽さ、鷹揚さを失わないというのは、それらの(それを見逃してしまっても生命には支障がないという意味で)些細とも言える出来事とその徴候を受けとめる余裕を失わないということだ。そして、それを、微細な事象へのこだわり(フェティッシュ)とか、身辺雑記だとか言って(大きな、重たい問題と二項対立的な対をなすものであるかのように)簡単にファイリングしてしまうような、粗雑な思考には決して染まらないということでもある。
●十五年以上も前に描かれ、発表された、一見とても地味にもみえる作品が、今(復刊されるのではなく、はじめて)本になるというのは、すごいことだと思う。勿論、新作の刊行にあわせて、ということもあるだろうけど。こういうのが、作品の力というものだと思う。その意味でもすごい。と同時に、この作品を本にしようと考えた編集者、出版した会社に、感謝したい。