●喫茶店で本を読んでいる時、ふと、制作のためのイメージがよぎる。それは、半ば、具体的な制作の手順に関することであり、半ば、もっと抽象的な、感触としか言いようのないもので、その両者が未分化に混じり合ったものだ。それは、その時に読んでいた本の内容とはまったく関係がなくやってきた。明日あたり、画材屋に行こうかと思った。
ただ、このイメージで実際に手を動かしはじめるには、いまひとつ、感触に具体性が足りないようにも感じる。もうひとつ、タメの時間をつくった方がいいかもしれない。しかし、そんなことを言っているうちに、このイメージは消えてしまうかもしれない。新しいことを「はじめるタイミング」はとてもむつかしい。まあ、やってみてダメなら、また考えればいいのだが。
●引用、メモ。ジジェク「激しい(脱)愛着--フロイトを読むバトラー」より。ここで書かれているのは、主体が大文字の他者に把捉される、異なる二重の有り様について、つまり、想像的な次元ではたらく、主体が主体であること(自己同一性)を基底的に支えている「激しい愛着(根源幻想)」と、そこからの距離によって主体に一定の自由をあたえる「象徴的な同一化」は分離している (主体であることの根源的疎外)という、精神分析の基本的な認識なのだと思うのだが、しかしそれが、次のような形で記述され直すことは、とても興味深い。
《われわれは再び、(社会的)同一化という基礎概念そのものを定義し直さざるを得ないだろう。なぜなら、激しい愛着は、それが公然として認められてはおらず、個人がある程度その場から身を引いているときにのみ実効的な力を行使しうるものであるがゆえに、ひとつに凝集した共同体の成立は、その構成員一人ひとりが同じ対象を核として直接的な同一化を果たしている状態ではなく、むしろまるで正反対の状態、つまり、一人ひとりが直接的な同一化を解除し、自分たち以外の人物を共同体共通の憎悪や愛情の代理人に立て、その者を介して愛し、憎しんでいる状態において可能となるからである。たとえば、キリスト教共同体は、「真なる信仰者とされている」幾人かの選ばれし個人(それは聖人、聖職者、あるいはキリスト唯ひとりのみかもしれない)が、共同体全体の信仰の代理人であると構成員たちに認識されることによって維持されている。象徴的な同一化の働きとは、このようにアイデンティティ対象への直接的な没入(ないしは融合)に対し完全なる対蹠をなす--つまり、対象からしかるべき距離を保つことなのだ(同じ理由から〈制度〉としての〈教会〉は、いつの時代にも狂信の徒こそ最大の敵と見なしていた。狂信者が〈神〉との同一化と信仰の直接性を求めるさまは、宗教制度が存続するのに必要な間隙を脅かすのだ)。》
《(…)原初に横たわり幻想として立ち現れる「激しい愛着」によって、主体が社会的・象徴的な存在となるために抑圧/否認のもとに組み伏せられているさまと、まさしくこの社会的・象徴的な秩序に従属することで、主体がある一定の象徴的地位に「叙任」される(呼びかけの声を認識する/声に同一化する場を得る)さまを区別することは、理論的にも、また政治的にも極めて重要である。この二者は、単純に「善」対「悪」のような対立項としては存在し得ない(この社会的・象徴的同一化そのものが、存在を表沙汰にできない幻想の下支えを切り捨ててしまっては、みずからを維持できない)のにもかかわらず、それぞれがお互いと異なる論理形態に従って機能しているのだ。》
ジジェクのロジックの大筋からは外れるけど、ここでぼくにとって面白かったのは、キリスト教者が、キリストを代理人として、キリストを媒介して信仰している、というようなとらえ方、神との関係のあり方だ。「キリストが信仰する」ことを介して、わたしが信仰する、というような。代理人を介して、愛し、憎しむこと。代理人が愛することを介して、わたしが愛する。