●昨日の、「作品/作品じゃない」という話をもうちょっと。「日常/場違い」展で観たいくつかの「作品」が、「作品じゃない」ものによってしか捉えられない何かを示していて、それがとても面白かったと感じる時、では、なぜそれらを「作品じゃない」という風に感じるのか。それが、ある種の経験を発生させるという意図をもって、人によってつくられた装置であるという意味では、作品と呼ぶべきもの何もかわらないはずであろう。しかしそれは、その装置そのものが、それ自身として閉じられて存在するのではなく、その内部にそれを経験する鑑賞者が入り込むことによってはじめて成立するものである、という意味で、作品とは別種のものという感じがする。
例えば、泉太郎による、たくさんのビデオカメラ、モニター、割れた鏡によって構成された狭い空間は、『ルネサンス・経験の条件』に書かれているブルネレスキの装置を想起させる。つまり、その装置には、あらかじめ観者のいるべき位置が指定され、観者が装置の一部に組み込まれている。観者が、あらかじめ与えられたしかるべき位置についた時に、はじめて装置は完成し、作動をはじめる。
例えば、去年の12月にスイッチポイントで行われた利部志穂の展覧会でも、観者は、作品の内部に入り込んで、作品を観る。その時、狭いところを通り抜けたり、足下の障害物を跨いだりといった行為が強いられ、そこで強いられた身体的行為や配慮の経験もまた、作品の経験の一部になる。とはいえ、作品は作品として、観者がそこにあらわれ、それを観ようとするよりも前にそこにあって、決して、作品内で観者が占めるべき位置が事前に確定されているわけではないし、観者が作品の一部として組み入れられることはない。
つまり、「作品」は観者から切り離されて、それ自身としてまず自律して存在していて、観者は、その身体のすべて、感覚のすべてを使って「作品を読む」のであって、観者と作品は決して一体になることはなく、作品は、純粋に「経験を発生させる装置(媒介)」となり切ることはない。作品が閉じていて、観者と切り離されてあるからこそ、作品と観者との関係は、あらかじめ決められているわけではなく、開かれている。作品は、閉じられているからこそ、観者との開かれた関係性が確保される。作家や、作品自身すらもが、未だ知ることのない、観者と作品との、別の関係の有り様が、観者のはたらきかけ次第によって新たに発見される余地が、常に可能性として開かれ、残されている。
多分、作品にはそのような意味での「未来」に賭けられた何かがあり、作品じゃない装置は、作品に賭けられている未来を消去し、そのかわり、ある特定の経験を強いる、「今、ここ」での感覚の強度に賭けられている。装置が、装置としての一定の恒常性をもつかぎり、その「今、ここ」の感覚は、今後も繰り返し反復されるだろう。
昨日につづいて繰り返し確認するが、ぼくは、作品の、作品じゃないものに対する優位を言い立てているのではない。その二つには、まったく別のものが掛けられている。ぼく自身、後者のものに強く惹かれてもいる。前述したブルネレスキの装置や、あるいは初期の荒川修作の傑作「ボトムレス」などは、あきらかに「作品じゃない」ものの系列にある。