ジジェクは、性的差異は、象徴的なものの次元にあるのではなく、現実的なものの次元にあると書いている。その部分が面白いので、メモとして引用する。実は最近『源氏物語』を少しずつ読み始めているのだが(まだ「若紫」までなのだが)、以下に引用されてるようなことこそが、そこには書かれているように思える。《》内は「激しい(脱)愛着--フロイトを読むバトラー」より。
ジジェクはまず、抑圧と排除の違いについて説明する。抑圧とは主体が成立した後に働くものであるが、排除は、主体が主体化する、その基底的な部分の生成の場で起こる、と。
《この抑圧とは、主体によって遂行される行為のひとつで、その行為を通じ(すでに一個の行為者として存在している)主体自身が心的内容の一部分を抑圧するのだが、他方で排除とは、主体成立の基底を与えることになる排斥という否認の身ぶり、まさしく矛盾無き主体の同一性そのものを一点で支えている身ぶりとなる。このような条件設定の内部には、主体としての統合性を崩壊させる事態までも包括しており、従って、その身ぶりは主体の手に「委ねられる」ことなど決してあり得ない。》
つまり、われわれの「性」をもったものとして主体化は、抑圧の次元ではなく、排除の次元で決定されてしまう、と(主体的にはどうすることもできない)。そして、そのときの原初的な排除の内容は、近親相姦の禁制ではなく、同姓の親に向けられた「激しい愛着」の排除だとする議論を肯定的に紹介する。近親相姦の禁制には《すでに異性愛という規範が隅々にまで行き届いて》しまっている。そうではなく、人はまず、同姓の親への愛着の排除によってそのリビドーの対象を失ってメランコリーに陥り、その上で、失った対象である同姓の親へと同一化することで、「ノーマルな」異性愛者となる。同性愛とは《喪失した現実を完全に受けとめることを拒絶し、いまだ失われた対象へ固執し続けている者のことではないだろうか》、と。例えば異性愛の男性の主体化のプロセスについて、次のように記述する。
《もし男が、(メランコリーを経由した呑み込みの)のちに、対象として欲望することを断念せざるを得なかったもの(男性)に成る--すなわち、男は「男性を欲望すること」を放棄せよと強いられていたがゆえに男性に成るのならば、まずはじめに、自分自身が成ることを恐れている者(女性)を、対象として欲望するようになる。》
そして、だからこそ、性的差異が、例えば「女性」を「男性ではない者」として生成させるような象徴的な差異の場で起こるものではないのだと記述する。
《性の獲得にあたっては、必然として他性の喪失が付随すると説く、プラトン=ユング的な概念(このような概念は、女性性と男性性それぞれの半身がひとりの人間の内面に同居し、一体化しているという有象無象の韜晦趣味的陰陽同体論を生み出す温床となっている)に対し、バトラーが真っ向から異議を唱える姿勢は正しい。その誤謬とは、「われわれがつねに異性のみを喪失してしまっていると、頭から決め込んでしまう点にある。なぜならば、多くの場合、われわれは自分の性を喪失しているというメランコリーの緊縛のなかに身を置いており、そうすることで逆説的にも、自分自身の性に成るからである」。端的に言ってしまえば、プラトン=ユング的な俗説が全く斟酌に入れていないのは、障碍ないし喪失が、厳密に検討すれば内在的な必然であって、外的な偶発物ではない点である。ひとりの女が、女性に成るために受け入れなくてはならない喪失とは、男性性の放棄を意味するのではなく、逆説的にも、ひとりの完全なる女性になることを永遠に妨げ続けている何らかの欠失なのだ。--「女性らしさ」とは装いなのであり、女性に成ることの不全さを覆い隠す仮面である。あるいは--ラクラウの用語で表すならば--性的差異とは、抗争状態に置かれた〈現実なるもの〉を指すのであって、差異に照らして整然と対立配置された〈象徴なるもの〉などではない。性的差異とは、異性と比するように線引きされた明確な識別特徴を各性別に割り当てた(ゆえに女性は男性ではない存在であり、男性は女性ではない存在であるという)対照一覧表ではなく、女が決して完全なる女性、男が決して完全なる男性にはないことの理由となる共通の〈喪失〉なのだ--「男性」と「女性」の見据える先は、この内在的障碍/欠失を二通りのコトバをもって焼き直したものにすぎない。
このような理由から「われわれは自分自身の性に成るために、その性そのものを喪失しなければならない」というパラドクスは、性的差異について語るとき、なおいっそうのこと的を射た言となる。》
《「異性間の関係など存在しない」のは、異性があまりに遠隔にあって、ワタシにとって根本から相容れない存在であることが理由なのではなく、異性がワタシにとってあまりに近接しすぎている存在、ワタシの(手の届かない)アイデンティティの中心そのものに巣くう異質な侵入者であるがゆえなのだ。結果として、ふたつの性それぞれが避けては通れぬ障碍として機能し、そのせいで相手の性は決して「自分自身だけで完結する」ことはない。「男性」とは、その存在が原因となって、女が女性としての自分を完全実現できなくなり、女性としてのアイデンティティ取得を不可能にしてしまう存在であり、もちろん逆もまた同様で、「女性」とは男の自己実現を阻む障碍の権化なのである。》
そして、性的差異が〈現実なるもの〉であるということについて。
《であるからして、問題の核心はここにある。バトラーが、性的差異こそ「心的世界の生における喪失を物語る最重要証言者に他ならない」との事実を受け入れようとしないとき--「あらゆる別離と喪失は、われわれがこの世界に性を得た生存在として立ち現れる引き金を絞った、拒絶不可能な他性の喪失に遡及する(ことができる)」との前提に疑問を呈するとき--バトラーは密やかに、性的差異と、個別の人間に「男性」ないし「女性」のあるべき姿を決定づけていく異性愛世界の象徴的規範とを同一視してしまっている。それに比して、ラカンにとっての性的差異とは、主体の性アイデンティティを揺るぎないものにする象徴的な規範世界のなかへ完全に象徴化されたり、転移あるいは翻訳されることなど絶対にあり得ないという、厳密な意味での「現実なるもの」なのである--まさに「異性関係など存在しない」のだ。》
《バトラー自身もこのポイントについては渋々ながら同意しているように思える。ここ最近の仕事を追読するとき、バトラーは性的差異と「社会構成体としてのジェンダー」とのあいだに極めて重要な意味を持つ相違が存することを認めている。性的差異の実際は、特定の時代と地域に恣意的に依存した社会的・象徴的編成における位置づけを直接反映しているものではない。むしろ、性的差異とは、既に生物学的規定から乖離しているものの、未だ社会的・象徴的構築体の空間には到達していない中間状態に広がる謎めいた領域の存在を指し示したものなのだ、と。そこでわれわれが一段踏み込んで突き詰めるべきは、〈現実なるもの〉と、地域・時代と共に幾通りにも変化してきたその象徴形式のあいだに開いた裂け目を維持してゆく「切断」こそが、他ならぬこの中間状態であるとの論証なのだ。もっと端的に言ってしまおう。言うまでもなく、われわれがセクシュアリティを象徴のなかに封じる行程は、自然に従う取捨選択ではなく、複雑に絡み合った諸相を持つ局時代的な社会・象徴上の権力抗争の産物ではある。がしかし、このまさに偶然の産物たる象徴化作用の領域、この〈現実なるもの〉とそれを表す象徴記号との断裂そのものは、一種の切断によって維持されなければならないのであり、その切断に対してラカンが与えた名こそ「象徴的去勢」なのである。ゆえに「象徴的去勢」とは、数知れぬ象徴化作用の自由な流れを何らかの形で制御している象徴宇宙の究極的な基準座標ではない。まるで反対に、「象徴的去勢」とは、偶然の産物たる象徴化作用の領域を下支えし、閉じぬように維持し続けようとする身ぶりそのもののことだ。》
象徴形式には常に裂け目があり、性的差異はまさにその裂け目の存在を示すものとしてある。「象徴的去勢」とは、象徴形式を精密に張り巡らせてゆくことで、その裂け目を埋めようとする身ぶりではなく、まったく逆に、裂け目を常に維持し、それが閉じてしまわないようにする身ぶりである、と。ということは、性的差異こそが人に象徴的去勢を促す(強いる)、と?。
人がひとつの(性的差異をもつ)主体として成立するということは、その基底部分に、まったくの偶然でしかない(それ自体としては意味のない)ある偏りが既に刻まれてしまっているということで、主体は、偶然でしかないものが運命として書き込まれることによってしか成立しない。そしてその意味のない偏り(裂け目)によってだけ、空虚な形式でしかない象徴的なものの体系と、われわれがそこで生きることになる内容-意味とが結びつけられる。
《このように、空虚な象徴の形式と偶発的に決定された具体的な内容とに明快に線引きされる区分を曖昧にぼやかしてしまうもの、それこそが〈現実なるもの〉である。それは内実のない外枠を内容物の一部に被せて焼き付けている汚れ後であり、程度の差こそあれ「病理的偏向」を持った偶発的具体物の「整除できぬ剰余」として、不偏不党の普遍物であると設定されていたはずの象徴の枠組みに「染み汚れ」を残し、そして象徴形式という内実のない枠組みが内容にしっかりと固着するための、まるで臍の緒のような役割を担っているものなのだ。この形式と内容が短絡接続している状態は、もっとも端的なかたちで(通例、誰しもが念頭に置いている)「カント的形式主義」を拒絶する、ないしは転覆する様態を呈してしまう。》
《まさしくこの意味において、ラカンの症候とは「結び目」なのだ。症候はその存在自体に何ら特別な必然性を感じられることなき些末な内世界現象である--しかし、そこに手を触れてしまったり、不用意に近づいて覗き込んでしまった瞬間、この「結び目」はするりと解けてしまい、それと共に、われわれの世界全体--われわれが言葉を発し、現実を知覚する場そのものもガラガラと瓦解し、われわれは文字通り、足下に踏みしめる地盤を失ってしまう事態に陥る……。》