●昨日チェーホフの「聖夜」を読んでから、「面影」と「見きわめること」について考えていた。
●ある人の顔に、その人の父親の面影を見るという時、あるいは、その人自身の子どもの頃の面影が残っているという時、そこに見ているものは何なのだろうか。「面影を見る」時に見えているものは、父親の顔のイメージでも、今見ているその人の顔そのものでもなく、その二つの顔の関係を表象する、第三のイメージであるだろう。しかしその第三のイメージは、明確に像を結んでいるわけではなくて、今、見ているその人の顔を見ることによって、その父親の存在が感じられるという、その人から父親へと想起が繋がる、一方からもう一方へと伝わって行く波の揺らめきのようなものなのだと思われる。あるものに触れることによって、そこから遠くにある別のものにも触れてしまったと感じる時の、その感情の揺れのようなもの。その時に触れているもの(見えているものの先にあるもの)は、父親の顔のイメージであるよりも、その存在であり、その人のイメージと父のイメージとの「関係のかたち」であろう。
「聖夜」の語り手は、復活祭の夜に教会へと向かう渡し船で、その渡し綱を操作をしている修道僧イエロニイームに出会い、その日の昼間に、イエロニイームが慕うニコライ神父が亡くなったという話を聞く。イエロニイームの話から、語り手は、彼自身の人柄を感じ、その彼が慕っていたニコライ神父の存在を感じる。語り手は、教会に行くとその庵室にニコライの遺体を探すのだが、見ることはできない。語り手は、《今さらニコライに会えなかったのを悔やむつもりはなかった。ひと目見ることができたら、いま心にえがいているような面影は消え失せてしまっているかも知れないのだ》と思う。ここで、ニコライ神父に会ったことのない語り手が「心にえがいている面影」はイエロニイームという存在に触れることで、彼のする話によって、その先におもい描かれたイメージである。だからそのイメージそのものには何の根拠もない。しかし、語り手はイエロニイームに触れることによって、彼の人柄に打たれることによって、その彼が慕った人としてのニコライ神父の存在に、確かに触れていると感じている。だから、その思いえがかれた面影が、実際にニコラスに似ているかどうかは(そのイメージに何の根拠もないことは)問題ではない。それは、イエロニイームを通じて結像された、つまり彼の存在によって根拠づけられた真実なのだ。面影は、その存在の確かな感触が仮にまとったイメージであろう。
教会で一夜を過ごした語り手は朝方にふたたび渡し船に乗るのだが、イエロニイームは他の修道僧の誰にも交代してもらえず、昨晩からずっと渡し綱の操作をしていて、寂しげで、疲れ切った様子だ。渡し船でイエロニイームは、語り手と並んで立っている女をずっと見ている。語り手は、《その女の顔に、イエロニイームは、亡くなった友のやさしい、穏やかな面影を探し求めているかのように、わたしには思われた》と語る。ここでも語り手は、実際に教会の庵室に安置されているニコライの顔を見るよりも、イエロニイームのまなざしを通して、彼が見ているであろう面影を通して、ニコライの面影を感じることの方を信用しているかのようなのだ。イメージの真-信というのは、このようなものであり、このようにしてあらわれるのではないだろうか。
●復活祭の夜、語り手が教会へと向かう渡し船で、今夜は教会へは行けそうもないイエロニイームは語り手に、《もうすぐ復活祭の聖歌がはじまりますよ》《でもニコライはもういないのですから、深く見きわめる者は一人もいません》《あなた、どういうことが歌われているか、よく見きわめてください》と言う。そして語り手は、聖歌のはじまった教会で、そこに集まる群衆を《どの顔にも祭日の生き生きとした表情が浮かんでいた》としながらも、《誰ひとりとして歌われている言葉に耳を傾ける者もなく、それを見きわめようとする者もなかった》と語る。
《どうしてイエロニイームを交代させてやらないのだろう。どこか壁のあたりに慎ましく佇んで、身を屈めながら、貪るように聖句の美しさを味わおうとしているあのイエロニイームの姿を、わたしは思いえがくことができた。今あたりに立っている人びとの耳を素通りして行く全てのことを、彼なら感じやすい魂で貪り呑み、感きわまるまで、心を奪われるまで呑みつくしたに違いない。そうして、教会中に彼ほど幸福な者はいなかったに違いないのだ。ところがその彼は、いま暗い川面を行き来しながら、亡くなった、兄とも慕う友を悼んでいるのだ。》
教会でいかにうつくしい聖歌が歌われようと、《自作の賛美歌に花や星や日の光をちりばめたりしながら、理解もされず孤独だった》ニコライは既に亡く、それを《深く見きわめ》それに《心を奪われる》ことの出来る者はもういないのだから、それは空虚な行いのだと、イエロニイームは思っているかのようだ。せめて語り手には、そのうつくしさをしっかりと《見きわめ》てきてほしい、と。しかし語り手は、そのように感じているイエロニイームこそが、その場にいるべき、それを《見きわめる》べき人物であると感じている。それを十分に《見きわめ》られるわけではない自分がここにいて、それに《心を奪われる》ことの出来るはずのイエロニイームがここにいないことの不条理を感じている。とはいえ、イエロニイームが聖歌を《深く見きわめられる》のは、彼が、その時に、《暗い川面を行き来》しながら《兄とも慕う友を悼んでいる》ような男だからなのだ。そして聖歌は《深く見きわめる》者もないまま《人びとの耳を素通りして行く》。
語り手は、今、この場にこそ居るべきであるイエロニイームがいないことによって、そのの不在によって、彼と実際に話している時よりもいっそう、その存在(魂)に触れているかのように感じている。語り手は、彼がこの場にいて、この場を《貪り呑み》、《心を奪われ》ている様が、ありありと思い描けるということによって、彼の存在を感じる。そのイメージのリアリティは、いるべき彼が存在しない「この場」に語り手がいることによって、つまり「この場」の力によって支えられているかのようだ。語り手が、今、実際に見ている「この場」を、十分に《見きわめる》ことの出来る存在としてのイエロニイーム。「この場」こそが彼であるかのように(そして、ニコライ神父とは、そのような彼が慕った男として、語り手に結像される)。
《深く見きわめる》ことのできる者が不在のままで歌われる聖歌。そして、それが出来るにもかかわらずその場にいないイエロニイーム。この二つの分離した項を、語り手は、イエロニイームのいない教会にいて、イエロニイームがそれを《貪り呑む》姿をイメージすることでつないでいる。この架橋は、たんに語り手の「頭のなか」でだけ起こっていることなのだろうか。