●フォーマリズムは、持たざる者のための技法だ。教養も教育も十分にはなく、血筋や権威やコネクションもなく、財産も経験も語彙も貧しい者が、とりあえず、自分にとって見えるような形で、今、ここに、あらわになっているものだけを頼りに、今、ここにある自分の身体と記憶の反応(反響や徴候)だけを頼りに、何かを判断し、手元にある貧しいものだけを使って何かを組み立てる。前提や文脈をいったん宙づりにして、判断するための情報が常に足りないなかで判断を組み立て、作るための素材が常に足りないなかで何かをつくりあげる、そのための技法。ぼくにとってのフォーマリズムの重要性は、そこにしかない。
●しかし、このような言い方には問題がある。これでは、持てる者と持たざる者との区別が、あらかじめ確定されてしまっているかのように読めてしまう。そうではなく、こつこつと蓄積した財産が一瞬にしてゴミの山になってしまったり、ただのガラクタだと思っていたものに突然プレミアがついてしまったりという、過剰に流動的で足場の定まらない世界、誰にとってもアウェーでしかないような非人間的世界こそが、フォーマリズムを要請するのだ。富は決して確定的には保証されず、得られる情報、持っている財産や技能は常に何かが足りず、本当は、この世界のなかでは誰でもが「持たざる者」でしかあり得ないはずなのだ(すべてを持つ者、すべてを見渡す者はどこにもいない)。そのような世界のなかで(財産や地位の奪い合いではなく)、相場の変動から切り離されたところで、手持ちのコマで判断や制作や行動を行うための原理と技法。
●それは必然的に抽象的で論証や実証の出来ないものとなるだろう。
スカイ・クロラ』で三ツ矢が至った認識、「エンドレスエイト」で世界が無限に反復しているという認識は、一体どのようにして得られたのだろうか。それは「この世界」の内部にあるデータだけでは決して導き出すことの出来ない解-認識であり、だからこそ、それを内側から確証することは出来ない認識だろう。
それは、データではなく徴候を読むこと、そして、直接的経験ではなく抽象的な思弁を重ねることによってしか得られない(データや経験は常に足りないのだから)。「エンドレスエイト」で、一回だけ「この世界は反復している」という認識が得られない回(確か三話だったと思う)があることはとても重要なことだ。そのような認識は、「生まれない」こともあり得る。むしろ、生まれないことの方があたりまえで、「生まれる」ことが希なのだ。
そしてその思弁もまた、論理的な必然性によって導かれるというより、論理からこぼれ落ちるものによって導かれる。論理もまた常に何かが「足りない」のだから。よってその解は、論証も実証も不可能であり、妄想ではないと言い切ることは出来ないものである。ある命題が真であるとされる時、その真であることを論証するための、「論理-論証の形式」そのものの正統性(限定性)を問うのが超越論的な認識論であるとすれば、フォーマリズムは、そのような認識論の権利の適応範囲外に飛び出す。だからそれは、理論的には短絡を含み、胡散臭くて、いかがわしいものとなるだろう。その認識は常に、偽物かも知れないもの、仮のもの、としてある。フォーマリストは基底(正統性)を持てず、借り物を身にまとう偽物として振る舞う。霊媒師のように。
●使えるものは常に少なすぎるし、使えないものは常に多すぎるのだ。
●本来空虚なものでしかないはずの形式に、意味や内容がどのように絡め取られ、織り込まれてゆくのか。あるいは、その空虚なもののなかで(空虚なものによって)、意味や内容がどのように生み出され、動き、鋳直されてゆくのか。形式を問うということは、そのようなことであるはずだ。それはそもそも論理的には短絡であり混同であり、歪みであり捻れであり、死体や人形に生命を吹き込もうとするようなもので、いかがわしいものでないはずがない。しかし人間が生きているのはおそらくそのような場所なのだ。
ぼくにとってラカンが重要なのは、精神分析が上記のような意味においてフォーマリズムであるように思われるからだ。