●お知らせ。3月13日に予定されている福永信さんとの対談の詳細が、百年のホームページにアップされています(http://100hyakunen.com/)。よろしくお願いします。
●磯崎さんから電話があって、今度のトーク(http://www.junkudo.co.jp/newevent/evtalk-shinjyuku.html#20100220-2shinjuku)は思い切りガチで行こうという話になった。それはつまり、流さないでちゃんと考えて話すということで、必然的に、沈黙の時間が長くなるということでもある。来て下さる方は、重苦しい雰囲気のなか、二人ともが黙り込んでしまう時間が長いこともあり得る、わかりやすい話にはならない、ということを覚悟して来て下さるようにお願いいたします。ということで、ぼくもちょっとびびってます。
ラカンは、そこに書かれていることの八割くらいは理解できたんじゃないかと思っても、じゃあ、それによってラカンが言おうとしているもの、掴もうとしているものの核心は何なのかという点は、近づいたとは思えても、掴めたようにはまったく思われず、いいところまでいってるような気がしても、するっといなされてしまうようだ。多くのラカン入門が書いていることは、ラカンの言っていることの要素のひとつひとつであって(それだってとても重要なことだけど)、それによってラカンが掴もうとしていることの核心は、そこにはないんじゃないかと感じる。ラカンはもっと大きくて、遠いものへと向かっている。とはいえ、ジジェクジジェクで面白いし、コブチェクもスタヴラカキスもすごく面白いのだが。
ラカンは、そのような分かったような分からないような書き方(しゃべり方)をわざとして、人を魅惑し、幻惑し、たんに言いくるめようとしているのだと(つまりカルトだと)言う人もいるだろうけど、それは半分は正しいとしても、半分しか正しくない。例えばラカンの「他者」という概念はやはりとても重要な概念であるように思えるのだが、それは、構造主義的な、構造を支える空虚で浮遊した点ということには還元できない。もっとややこしく、もっとあやしげでこんがらかった概念で、それを言うためには、あの、もってまわった謎かけのような言い方が必要なのだと思う。ある地点までは理解できたと思っても、次にまったくちがうことを言い出して、ええーっと思って、また分け分からなくなってしまったりする。ラカン特有のあの「シェーマ」というのもまた、話をわかりやすくしようと思って出してきているとはまったく思えず、いきなり「これが真理だ」という形で呈示され、とまどいつつもまずは受け入れるしかないのだが、ある程度理解すると、なんとなく納得させられるのだが、でもどこかで、騙されている感は抜けきることはない。だが人間にとって、真理とか意味とかって、常に胡散臭いものとしてしか現れないんじゃないだろうかとも思うのだ(そう思うこと自体がラカンに騙されている?)。
シェーマが必要なのは、語り-読みという「時間のなかであらわれてくるもの」とは別に、図として、一挙に、「無時間的に呈示されるもの」が必要で、その両者を併せてというか、どちらでもない両者の隙間にこそ、ラカンの捉えようとするものがあるということだろう。それは、無意識-シニフィアンが、通時的(時間的)構造と共時的(無時間的)構造との両者を併せ持つものとしてあることにも対応するのだろう。『無意識の形成物』に出てくる、シニフィアンの流れとディスクールの流れとか逆向きに二度交錯するシェーマなど、最初は何のことかさっぱり分からないのだが、ある程度理解出来ると、まさにこのような図としてしか把捉-表現されないことが表現されていると思える(我々が経験可能な時間の外にある、別の時間性がある)。しかし、そのシェーマがどんどん複雑になってゆくと、えーっ、そこまでこのシェーマでごり押しするのはどうなんだろう、となってくるのも事実なのだった。しかしそれは、不審や疑問であると同時に、ぼくの頭が追いついていっていないんじゃないのか、という畏れでもあるのだが。