●夜、雨のなか傘をさして買い物に行った帰り。湿った空気。袋からネギがはみ出し、直接雨に触れている。しゃりしゃりしゃりという、濡れた路面を車体の重みを受けたタイヤが噛んで転がり、ゆっくりと進んでいる音が後ろから聞こえたので、車のすれ違うことの出来ない細い道を脇に逸れる。白くて四角いバンがスローモーションのような速度で追い抜いてゆき、すぐ先の角で右に曲がっていった。車体の後ろの赤いライトの「赤」が距離を超えて目に貼りつくのと同時に、そのライトに照らされて浮かび上がった雨の粒が、白くて四角くて重そうな物体とぼくとの間の空間を目に見えるものとする。背後から迫って追い抜いていった、しゃりしゃりしゃりという音は、後ろ側にある時は、確かに重たそうな物体と結びついていたのに、前にまわると、実際に見えている白くて四角くて重そうな物体との結びつきを弱め、ただそれだけでそこにあって、動いていったもののように感じられた。
ヴァージニア・ウルフの短編集を読んでいて、「憑かれた家」という四ページにも満たない作品に惹きつけられた。青木淳悟(「ふるさと以外のことは知らない」)とエミリー・ディキンソンとを同時に想起させるような小説。古い家と(そこに残されていた?)本によって、かつてそこに住んでいた男女の幽霊が長い年月を隔てて目を覚ます。二人は何かを探しているようだ。今、そこに住んでいる「私たち(おそらく男女?)」のうちの「私」が、それを感じている(あるいは、幽霊たちは私によって想起されている)。幽霊たちは、本に書き込まれた言葉によって、私がその存在を想像することで目覚めたのか、それとも、「だいじょうぶ、だいじようぶ、だいじょうぶ」と繰り返し呟き、ドアを開け閉めする、その家そのものの持つ自律した鼓動によって目覚めさせられたのか。そして探しているものを《「いま二人はみつけた」》と、その二人を感じ、想起する「私」は確信する。しかしその「私」の方は、《私の両手は空っぽ》で、何を見つけたかったのかさえ分からないでいる。
《だが、二人は客間でそれを見つけていた。二人の姿は見えなかった。窓ガラスに林檎が映った。そして薔薇も。薔薇の葉はすべて窓ガラスのなかで緑色に見える。客間で二人が動きまわると黄色い林檎だけがくるくると回った。だが、それから少し経ってドアが開けられると、床のうえに散らばっている、壁に掛かっている、天井から垂れさがっている---いったい何が? 私の両手は空っぽだ。鶫の影が絨毯のうえを横切る。もっとも深い沈黙の井戸から森鳩は音の泡を曳きあげる。「だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ」家の鼓動が柔らかく脈打つ。「埋められた宝、部屋は……」鼓動が不意に止まる。そうだったのか、ああ、宝が埋まっている? 》
二人はなお、歩きまわる。《家のなかを歩きながら、窓を開けながら、私たちを起こさないように声を低めながら、幽霊のような二人は自分たちの歓びを探す。》夜、目覚めているのは幽霊たちであって、私たちは眠っている。私は、幽霊の存在を感じながら、眼は閉ざされ、それを見ることは出来ない。しかし、私は幽霊たちによって「見られて」いる、その視線を感じている。《私たちの眼は閉ざされている。傍らで鳴る足音は聞こえない。幽霊のような服を纏った女も見えない。男の手が角燈(ランタン)を覆う。「見なよ」彼は囁く。「ぐっすりと眠っている。唇に愛情を湛えて」》私は、「聞こえない」し「見えない」はずの、眠る「私たち」を見ている男の、その仕草や言葉を、おそらく見るのでも聞くのでもない仕方で感じている。その見えないし聞こえない「燈火」によって、私の瞼は開かれる。幽霊は、私の想起によって目覚めたのかもしれないのだが、その(見えない)幽霊たちのざわめきにによってこそ、私は目覚めさせられる。
《「だいじようぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ」家の心臓は意気揚々と拍つ。「永い月日---」彼は囁く。「きみはふたたび僕を見つけた」「ここで---」彼女も小声で応える。「眠って、庭で本を読んで、笑って、屋根裏で林檎を転がして、ここに私たちは宝物を残した---」身を屈めた二人が持つ角燈(ランタン)が私の瞼を開かせる。「だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ」屋敷の鼓動は高らかに鳴りひびく。目覚めた私は叫ぶ。「ああ、ではこれが---これがあなた方の宝なのですね。心のなかのこの燈火が」》