●買い物に行って、スーパーの台に一面だーっと並んでいるイチゴの色の鮮やかさに惹かれて、つい買ってしまった。一度通り過ぎたのだが、再び戻って手に取ったら、もう、それを食べないということは考えられなくなってしまった。イチゴに向かうチャンネルが開かれてしまった。イチゴを買ったのは何年ぶりだろうか。ヨーグルトのなかに果肉が入っているとか、そういうのではなく、まるごとのイチゴを前に食べたのがいつだったのか、憶えていないほど遠い過去だ。食べてみて、そうそう、イチゴの味って、実際に食べた時の甘さよりも、その匂いによって想起される甘いイメージや、食べた後に口のなかに残る甘い感じにこそあったのだ、と、思い出すのだった。
●『ジャーマン+雨』(横浜聡子)をDVDで。すごい。映画としては『ウルトラミラクルラブストーリー』の方が洗練されているけど、作品としては、こちらの方が強いのではないか。この監督の頭のなかはいったいどうなっているのか。一見わかりやすいようでいて、よく分からない。この作品に『ジャーマン+雨』というタイトルがつくという、そのことだけでもすごく面白い。
イメージとイメージ、記号と記号との結びつけ方、関係させ方が、いままでにみたこともないようなものであること。さらに、それがたんなる新奇な、珍奇な結びつきの効果を狙ったものではなく、それが産出される原理や装置が(それがどのようなものなのかは掴み切れないとしても)確かに存在し、作動していると感じられること。そして、その装置の作動の向こう側に、(「現実」や「現在」に似ているとか、もっともらしいとか、そういうこととはまったく別の)あるリアリティや必然性が感じられること。つまり、その装置の先に、そのような装置の内部を実際に生きている確かな存在の核のようなものが感じられること。そのような時、人はそこに、あたらしい作品、あたらしい作家の存在を感じるのだ。そのような意味で、『ジャーマン+雨』は、まぎれもまく、一人の「あたらしい作家」の誕生を示している作品であり、さらに、この作品の次に『ウルトラミラクルラブストーリー』がつくられたことで、その「あたらしい装置」の存在が、より明確に証明されているのだと思う。
よく、映画は監督だけでつくるのではなく、無数の俳優やスタッフたちが共同してつくるのだと言われるし、確かにそれは一面で正しいのだが、しかし、たんに映像と音声の束でしかないものを、作品というひとつの作動する装置へと組み上げるための核となる存在は必要で、そのような「装置の秘密」を握っている存在が「作家」なのだと思う。作品を支えるために必要な細部をつくるための技術と、それらの細部を「ある装置」の内部で作動させる技術とは別の場所にある場合がある。作家の位置は、必ずしも監督というわけではなく、場合によっては脚本家かもしれないし、一人の俳優であるかもしれないし、カメラマンであるかもしれない。実際、映画としてのスタイルは大きくことなる『ジャーマン+雨』と『ウルトラミラクルラブストーリー』だけど、誰が観たって、この二つの作品が同じ作家によってつくられたことは明確に理解されると思う。
●『ジャーマン+雨』を観ていて、すごくドッジボールをしたくなった。
●「作品」や「作家」は、確かに「現実」や「現在」や「作者」から生まれるのだが、それよりも大きいものとして、そこからの跳躍によって生まれる。「作家」は、「作品」の成立によって事後的に生まれるもので、それは生身の「作者」より、ずっと大きなものであるはずなのだ。