●銀座のGALLERY TERASHITAで、浅見貴子+平体文枝展(http://www.gallery-terashita.com/)。
浅見貴子の作品は、いつもの大画面の作品に比べてひかえめなサイズであることを反映して、いつもよりも線の細い感じの植物-樹がモチーフとして選ばれていて、そのモチーフが、いつもとはひと味違った感じで、繊細に描写されている。その感触は一面で、オーソドックスな水墨画に近づいているようで、しかしもう一方で、具体的なイメージをそのまま抽象化するフォトリアリズム的な作品に近づいているようにも見える。
この、いつもの大画面の作品と今回の作品との違いは、そのまま、人を見下ろすような巨木の下に立つときと、それほど大きくはなく、枝ぶりなども繊細な感じの樹木に対する時との違いとに対応するように思われる。しかし、一見素朴な、樹木-人の関係と作品-人の関係の(素直な)パラレル性は、浅見貴子の作品の不思議な特異性をあらわしているように思う。その作品は樹木(のイメージ)を表象しているのではなく、樹木を(別の次元へと転送させ、そこで)存在させている。あるいは、作品が、樹木が存在しているその場のあり様の全てを、白から黒への墨の調子の変化と、穿たれる点のリズムに変換した上で、把捉している(最近の作品には一部にわずかな彩色がみられるが、それが今後どのように展開してゆくのかは未知数だ)。だから、描くとは、写すことではなく、作家が自身の身体を使って、現実上の諸関係を、描画材料を素材とした物の諸関係へと「移す(変換する)」ということのなだ。浅見貴子はあくまで具象的に樹木を「描く」のだが、それはイメージを媒介としながらも、イメージを超えてゆくということなのだと思う。
平体文枝の作品は、大胆に、ある意味ずうずうしいと言えるくらいに、「油絵の具に淫している」感じ。それは、良くも悪くも、ということなのだが。しかしその、清々しいとさえ言える「油絵の具への身の任せ方」に、最近、再び油絵の具を使い始めたぼくは、「揺さぶりを掛けられる」という感じを受ける。つまり、ぼくはまだまだ、油絵の具を遠慮がちにしか使えていないのだなあ、と。油絵の具というのは、それ自体で、とても強く(強い特性、強い主張があり)、扱いづらいもので、ぼくはまだ、その本当にヤバい部分にまでは、全然踏み込めていないなあ、と。平体文枝の作品のことではなく、自分のことになってしまったが、「油絵の具、なめんなよ」と、作品から言われた感じ。