ジュンク堂新宿店で、磯崎憲一郎さんとトークイベント。今回のトークはガチでいこうと言い出したのも磯崎さんなら、実際にガチな話になったその展開を支えていたのも磯崎さんだったと思う。「お前はこのトークのために事前にいろいろ準備してきたのかもしれないが、そんな事前の準備など実際のところ何の役にもたたないのだということを、お前はこの場で思い知ることとなるだろう」とでも言わんばかりの、初っぱなから核心をつくハードなツッコミと無茶ぶりのおかげで、ぼくは、人前で話しているということを意識する余裕がほとんどなくて、まるで、やけに人の多い混み合った喫茶店で磯崎さんと二人だけで話しているような感じで話すことを余儀なくされた。つまり、こんな話を人が聞いて面白いのだろうかとか、こんな話がはたして通じるのだろうかという配慮はすっかり抜けてしまって、ただ、磯崎さんが問い掛けてくるものに対して、それをどうやってきちんと受けて返すかということしか考えられなかった。とはいえ、実際に磯崎さんと二人だけで話したとしたら、真面目な話がこんなに長い時間持続するとは思えないので、そこには「人前で話す」という緊張感は作用していたのだろう。
ガチで、というのは、ぼくと磯崎さんがお客さんの前でケンカしてみせるとか、第三者をディスってみせるとかいうことではなく、むしろそのようなサービスはいっさいしないで、ただ真面目な話だけを真面目にする、ということだ。聞いていた人がどう感じていたのかは分からないけど、そのことだけは出来たんじゃないかと思う。それも、磯崎さんがずっと、適当に話を合わせたり、「わかりやすさ」の方に妥協したりすることない態度を一貫していたおかげだろう。
今日の話は、面倒くさくて込みいっている上に、それを理解したところで、社会的、経済的な生活上ではまったく役に立たないことばかりで(でも、社会的、経済的な部分以外で、人はそういうことによってしか支えられないのだということをぼくは本気で信じているし、おそらく磯崎さんも信じていると思う)、いい歳したおっさんが二人して、「いわゆる現実」からまったく遊離した、小説とは何か、芸術とは何か、みたいな浮ついた(一見抽象的な)話ばかりを延々としているわけで、実際に、様々な意味で世界が激変しているような時代に、あたかもそんなこと眼中にないかのように「作品」の話ばかりすることは、人によっては「誠実ではない」と感じるかもしれないとは思う(勿論、ぼくはそうは思っていないし、そんなことはないという話しをしていたもりだ)。
イベントの後の打ち上げで磯崎さんから聞いたのだが、磯崎さんは娘さんの通っている中学から頼まれて講演をしたそうだ。そこで磯崎さんは、「芸術は思春期の混沌から自分を救ってくれる、若い時によい経験をすると、将来その記憶が絶対に自分を守ってくれる、歳をとってからも記憶に鮮明に残っているのは、重大な出来事などよりも、例えば普段より早く学校が終わった帰りみちで、いつもの駅の光の射し方がいつもとは違っていたとか、そういうことの方だ」、といった話しをしたそうだ。中学生に向かって、こういうことをストレートに言える大人は少ないのではないか。しかし、本当に重要なのは結局はそういうこと(だけ)で、今日の話も、おそらくそこと直接的につながっていたはずだと思う。
●(補遺、二十一日に書きました)二十日の日記に対して磯崎さんからメールをいただく。ああいう風に書くのではなく、昨日の話で言いたかったこと、言い足りなかったことについて、ちゃんと書いた方がよいのではないか、と。それはきっとその通りなのだろうけど、昨日、あの場で喋ったことは、「昨日、あの場で喋ったこと」なので、それを、帰ってきてから自分でもう一度整理して、改めて日記に書き直すというのは相当かったるいことで、昨日話そうとしたこと、しかし充分に話せなかったことは、その場だけですぐ忘れてしまうわけではなく、今後も折りに触れて何度も思い出し、何度も考え直すことだと思うので、それはその都度、思い出し、考え直したその時に、違った形で、繰り返しこの日記に書かれることになると思います。毎日、日記を書くというのは、そういうことだと思っています。
なので、日記には、とりあえず帰ってきた時に残っていた「印象」だけを書きました。
このことは、磯崎さんからのメールへの返事として書こうと思ったことなのですが、昨日の日記の補遺にもなると思い、ここに書きました。
一つ付け加えるとすれば、昨日のトークで、「お前はこのトークのために事前にいろいろ準備してきたのかもしれないが、そんな事前の準備など実際のところ何の役にもたたないのだということを、お前はこの場で思い知ることとなるだろう」とでも言われたかのように感じたことはとてもリアルで、つまりそれは、たんに磯崎さんに押されていたということを言いたかったのではなく、トークに限らず、作品をつくるにしても、観たり、読んだりするにしても、事前に用意出来ることなどたかが知れていて、そんなものに頼れない時に出てくる何かしらの力こそが重要なのだということを、昨日、磯崎さんと話しながら強く思ったということです。おかげでぼくも、多少はケツをまくって話せたかな、と。
(さらに補遺)磯崎さんからの、昨日来てくれた人へのお礼&メッセージです。「昨日の話には、全く逆の意味に取られかねない落とし穴がたくさんあるのだけど、思い返してみると『人はある日…』の「とちゅうで」をきちんと読めば、伝わるような事しか言っていなかったと思います。なので、よく分からなかった事のある人は「とちゅうで」をもう一度よく読んで下さい。」