●以下、引用。エズラ・パウンド「ヴォーテシズム」より。
《三年前のことパリで、私がラ・コンコルドで地下鉄を降りたところ、ふいに美しい顔を目にした。続いて二人の顔、また美しい子供の顔、それにまた、今一人の美しい婦人を見た。その日一日じゅうこの出会いが私にもった意味を表わす言葉をさがしもとめた。
だが私には、あの不意の情緒に匹敵する、あるいはそれと同じくらい美しい言葉を、どうしても見つけることができなかった。そしてその晩、レヌアーレ通りを通って帰る途中もまださがしつづけていた。すると不意に、その表現をみつけたのだ。言葉をみつけたというのでなく、実は言葉でなしに小さな色の斑点となってその等価物が訪れたのだ。》
●パウンドの詩論から離れ、この部分についてだけ切り離して考えてみる。ここで、地下鉄を降りた時にたてつづけに出会ったいくつかの顔によってもたらされた感覚(情緒)の等価物としての「小さな色の斑点」は、「私」が目にしたいくつかの顔の造形や表情を説明するものでも、描写するものでもない。バウンドは「その表現」と書いているけど、それが「表現」であるのかも疑わしい。それはまさに「等価物」としか言いようのないものだろう。
これは、簡単には「抽象画」のようなものとは結びつかない。ここで「私」に見えている「小さな色の斑点」は、「私の頭のなか」にあるものであって、それをそのまま外には出せない。それを絵にしようとすれば、また、その「頭のなかの色の斑点」の「等価物」を、あらためてキャンバスと絵の具という物質を使って構成しなければならないからだ。それは制作の過程で探られなくてはならない。頭のなかでは黄色だったものが、実は赤い絵の具によってしか表現できない(置き換えられない)感覚であるかもしれないのだ。あるいは、目の前を通り過ぎたいくつかの顔の面影が、まったく別の場所の風景のなかによぎることもあるかもしれないのだ。
「私」を媒介とした二重の変換-翻訳によって、「いくつかの顔」が「一枚の絵画」という等価物をもつことになるとする。この絵は、人の顔を描いたものでも、その顔と出会った風景を描いたものでもなく、いくつかの色の斑点という形をとるものであるとする。その時、この絵を観る「私」以外の人には、この絵を描かせた原因として、いくつかの人の顔があったということを察知することは不可能であろう。もとより、この絵を理解するということは、遡ってその絵の原因にたどり着くということではない。それが分かったからといって、別にどうということはない。
キャンバスに塗布されたいくつかの色の斑点は、地下鉄を降りた時にたてつづけに出会ったいくつかの顔という根拠をもつ。しかし問題は、それを観た人がその根拠へと遡行することにはない。重要なのは、そこにある色の斑点に、何かは分からないが、色がそのように並んでいる根拠が何処かにあり、それらは正確にそう並んでいなければならない必然性によってそうある、と感じられることだろう。リアリティというのは、そういうことだろう。その時、その色によってもたらされた「情緒」は実質をもち、それを観たそれぞれの人にとって、また別の等価物へと繋がってゆくのではないか。未だ発見できていない、その等価物への希求や予感として、「作品」は、経験していないものの記憶、あるいは、未だ起こっていない出来事の予感のように作用するのではないか。