●昨日の日記に書いたことには、いくつかの意味がある。
(1)まず、作品を理解するのに、特定の知識・教養や、共有された経験、感覚、土壌などは、必ずしも必要ではないということ(あった方が望ましいとは言えるかもしれないが、しかしそれらが邪魔をする場合もあるので、必ずしもそううとも言い切れない)。もともと、作品に接する人は、全て、一人一人異なる性能の身体、脳をもち、それぞれ異なった経験をもつ具体的な誰かであり、それぞれが、自らの限定された身体と経験とによってそれを受け取るしかないのだから、「共有された何か」などをあてには出来ない。アーカイブなどあてに出来ない。人は手ぶらで作品と対するしかない。(2)とはいえ、それは決して、作品は受け取る側の自由な解釈や想像力や感じ方に委ねられているということではない。作品は出来うる限り正確に掴まれなければならず、そこに受け手の自由な解釈など入り込む余地はない。だがここで言う正確さとは、作者の意図のことではないし、字義通りの意味での、内容の正確な理解でもない。昨日書いたように「それが何かは分からないが、それがそのようにある根拠が何処かにあり、それらは正確にそうでなければならない必然性によってそうある、と感じられる」という意味でのリアリティを掴むということだ。だから、作品は、具体的な手触りをもった抽象性としてはじめて捉えられる。その時、リアリティとは、掴むというより掴まれるものかもしれない。人はリアリティに否応なく掴まれるという形で作品に把捉される。(3)だから、作者は、作品の内容や具体的な構成についてはよく知っているかも知れないが、作品の意味(具体的な手触りをもった抽象性)を所有しているわけではない。それは、それを受け取る人それぞれの身体と記憶のなかで結像される、それぞれ異なるイメージやヴィジョンとしてあらわれるしかない。それは作者とは切り離されている。具体的な手触りをもった抽象性としてのリアリティは、それぞれ異なる組成をもった人の身体の上で、あらためて再構築されてあらわれる(それぞれの人が、みんな異なる身体によってこの世界を受け取っているのだという事実に、戦慄せずにはいられない)。(4)いや、具体的な手触りをもった抽象性としてのリアリティは、明確なイメージやヴィジョンには着地しないかもしれないものだ。それは、決して空虚ではなく、それ自体として充実しているが、しかし内容(イメージ)が欠けている経験のようなものかもしれない。実質はあるが内容が抜き取られてしまっているもの。経験したことのないものの記憶であると同時に、記憶が抜き取られてしまった経験でもあるようなもの。それは、要約したり理解したりするのではなく、作品が与えてくれたものの「等価物」を、それぞれの人が改めて発見すること(出会い直すこと)によって、経験し直されるしかないような何かだ。だから、作品の意味は現在をすり抜けて、常に未来へと転送されていると言える。だからこそ、作品に触れた人は、自らも何かしらの創造的な行為(勿論、作品を制作するということに限らない)へと促されずにはいられない。
●久しぶりに観た「ちいさんぽ」堀切菖蒲園篇がとてもよかった。ただ散歩するにも才能がいる。