●13日のトークに向けて、『あっぷあっぷ』「ここ」「午後」を、ノートをとりながらがっつりと読む。『あっぷあっぷ』と「ここ」については、以前に福永信論を書いた時にかなり詳細にとったノートがあったはずなのだが見つからない(本やノートは適当に段ボール箱につっこんで積み上げられている)ので、あらためてやり直すことにした。これがすごく楽しくて、時間を忘れてのめりこんでしまう。ノートをとるというより、福永信原作で描くマンガの下書き、みたいな感じのもの。
●作家論を書く時は必ずやるのだが、絵コンテのようなものを具体的に描くと新たな発見がいろいろある。必然的にゆっくりと読むことになるし、読み落としていたところが拾えるということもあるが、何より、絵で描けることと描けないこととが分かる。絵で描けること、絵ではなく図として描いた方がよいこと、式のようにしてあらわせること、文の連なりとしてしか示せないこと(視覚化すると消えてしまうもの、呈示されるものの順番とか、話者と描かれる世界との関係とか、論理を展開させる時の好みとか)、小説は、これらのことが入り交じって出来ていて、それらの配合の割合や順序、連結や動き方は、当然だが作家によってみんな違う。
●福永さんの小説は、絵として描くのがとても楽しいのだが、当然だけど、絵で描ける動きだけから出来ているわけではない。そのことも、絵で描いてみると分かる。そして、初期作品から、ABCDのシリーズに至る、その成り立ち方の変化なども感じられるように思う。初期作品は、ほとんど絵では描けないことによって成り立っていたと思うが、ABCDのシリーズになるとかなり絵で描けるようになってくる。それは、論理的、構造的にはシンプルになっているということでもある。しかしそれとはまた別のやり方で、別のあり方として、複雑になっていると思う。
●おそらく、『アクロバット前夜』や『コップとコッペパンとペン』によって福永信という作家を認識している人は、ABCDのシリーズを読むと、かなりイメージがかわるのではないかと思う。そのくらい大きな変化があるように感じられる。
大江健三郎の「アナベル・リイ」について書いた時は、ほとんど絵が描けなかった。岡田利規論を書いた時は、「わたしの場所の複数」で主人公の女性がするポーズをすべて絵で描き出してみたのだが、そのポーズの流れと、女性の想起の流れとは、必ずしも一致せず、それぞれバラバラに動いていながら、あるときふっと同期したりした。その感じはチェルフィッチュを観る時に似ているように思った。