●ここ数日、カビの生えた濃厚なブルーチーズを食べたいとずっと思っていて、なぜ唐突にそんなことを思うのか不思議だったのだが、きっとチェルフィッチュを観たからだと思いついて、納得した。まだ食べられてないけど。
●『ポルト・リガトの館』(横尾忠則)を読んだ。大変失礼な言い方になってしまうが、予想外に面白かった。良い意味で予想が裏切られた。小説としては稚拙と思われる部分もあるし、題材やあらすじ的な内容からすれば、横尾忠則が小説を書けばこうなるだろうと想定されるものの範囲内に納まる程度のものだろう。最近のどろどろのペインティングが、空間上ではなく時間軸に沿って展開されている、といえばわかりやすいと思う。とはいえ、それだけではないものがこの小説集にはあるのだ。それは、小説という時間的な展開によってもたらされたものであるようにも思う。
視覚的な描写が強いこの小説集で、しかし重要なのはむしろ視覚化されないもの(情報の限定の仕方や比喩の転倒など)であり、それによって(横尾忠則にとっての)「視覚を基底的に支えているもの」の有り様が浮かび上がっているように思われた。つまりここには、ある「視覚像」を結像させる、視覚的なものとしては顕在化しないものまで含まれた知覚-経験を構成するひとつの場としての(横尾忠則という)身体の感触が刻まれているように感じられたのだ。この小説集を読んだことで、横尾忠則の絵から、ぼくがいいまでは見るこのできなかったものが見えるようになるかもしれないと思った。横尾忠則という新しい作家(画家・小説家)を発見したような感じ。
視覚的な描写そのものについて言えば、それが喚起するイメージの濃さと鮮やかさは、時に小説としての流れを断ち切り、それとは無関係に突出してくるように感じられた(「小説」としてはちょっと退屈に思えてしまった最後の「スリナガルの蛇」において特に)。それは、いわゆる「小説の描写」の機能とは別種の、それ自身として自律した生々しさをもつ(それは、いわゆる「上手な描写」とは別種のものだ)。でもそれは、作者が画家だからだということでは説明出来ないように思う。この本に収められた小説の描写によって喚起されるイメージのクリアな感触は、横尾忠則の絵画作品から感じられるものの感触とはやや異なったもののように思われるのだ(勿論、共通した感触もあるのだが)。
あと、例えば「パンナタールへの道」で、美伽という(あまりにもベタな)女性の描き方や、それに対する貴誉という男性の距離の取り方の描き込みとかが、すごく「微妙」で面白い。横尾忠則という人は、こういうことも書く人なのか、というのが新鮮だった。この小説ような、幻想的で神秘主義的な作風の作品はしばしば、人物に動きがないというか、人物に精彩を欠くことが多いように思うのだが、この小説は、美伽と貴誉の関係や動きによって成り立っているとも言えると思う。
(それから、横尾さんと磯崎さんが仲がよいということが、この小説集を読むとなんとなく納得できるように思った。)
《昼食のあとホテルのプールでひと泳ぎして、プールサイドの芝生に水着のまま寝っころがった。引き伸ばされたような青い空を見上げていると、その奥から無数の胞子がくるくる舞いながら落ちてくるのだが、決して地面には着地せずいつまでも宙を漂っている。胞子は陽光の中で金色に瞬き、まるで夢の中の小さな光りの妖精が乱舞しているようだ。普段気づかないが、空には実に多種多様なものが飛びかっている。空中を舞う胞子は核分裂を起こすようにその数を増やすばかりだ。胞子に混じって天空から花びらや水滴の洗礼まで受ける。さらに昆虫や鳥も交叉する。こうして空を仰視していると、肉体の重力が喪失して天空の奥に吸い込まれそうになる。すると上下が逆転して上を仰いでいるつもりが、実は下を覗いているのではないかと錯覚さえしてしまうのだった。インドで思索すると、世界が逆転して見える魔力のようなものに取り憑かれることがある。そんな想像を掻き立てた青空が一変したと思うと、怪しい雲行きに変わり始めたのであわててハウスボートに走るように戻った。と同時に大粒の雨が甲板を激しく叩き、風景が洗い流されて消えてしまうかと思われた。》(「スリナガルの蛇」)