●『エヴァ破』を映画館で見ると、とにかくその画面の充実だけでお腹いっぱいになる。「作品」としてどうかと問うことがバカバカしく思えるほどの、視覚的な密度と圧力。観てないけど、『アバター』とかもきっとそうなのだろう。そこまでではなくても、地デジ化と高画質テレビによって、それは家のなかにまで持ち込まれるだろう。視覚像の充実は、ちょっと前では考えられなかったほどに高度なものになってくる。それがもたらす驚きと快楽は圧倒的なものだろう。それはまるで夢かトラウマのように鮮やかだ。
絵画が、それと同じ方向で「視覚像の充実」を争うことは不毛であるように思われる。たたみ込まれ圧縮された情報、重層化される分厚いマチエール…等々。そうではなくて、画面に軽やかに舞う数本の線の絡み合いによって獲得される複雑さや抽象性によって、いわゆる「画質」や「解像度」とはまったく別種の、しかし同等の強度をもった充実を得ることは可能だろうか。そのような方向へと進んでゆくことに希望はあるのか。
チェルフィッチュの新作は、そのような方向性への希望をみせてくれるものでもあった。複雑なフォーメーションによって実現されるものは、情報の圧縮や声のデカさとはまったく別種の充実と力を可能にする。そしてそのために、高画質で撮影できるカメラも、3D映像を構成するコンピューターも、それを映写できるスクリーンも必要ではなく、何人かのすぐれた俳優がいれば充分なのだ。つまり、手元に豊かな富がなくても、手近にあるものを工夫して用いることで、なんとか可能となる。ピカソは、もし刑務所に入ったら、自分の糞を指で壁にこすりつけて絵を描く、と言ったそうだ。画家の優位は、とにかく描くものさえあれば、たった一人でも仕事が出来るということだ。画家は、絵の具が「糞」しかなくても絵画を成立させられるように自らのを鍛えればよい。絵画の強さは、たぶんそっちにある。