●演劇を観る観客がひとつの場を共有しているというのは本当なのだろうか。むしろ演劇(パフォーミングアーツ)こそが、(場ではなく場所を共有しているからこそ)あらゆる人がまったく別のものを見ているという事実を最も露わにしてしまうのではないだろうか。つまり演劇においては、同じ時に同じ場所にいたという事実以外に、「同じものを見た」ことを保証するものは何もなく、それを事後的に(証拠を調べるようには)検証することも出来ないのだ。時と場所を共有しつつも文脈(場)を共有しない者たちが、事後的に検証することが不可能な何かを、そこでそれぞれが観ることになる。劇作家も演出家も役者も観客も、誰一人その出来事の全体を知るものはなく、自らの限られた視点から目撃した事以外のものを知ることが出来ず、それを後になってから検証することも出来ない。それぞれバラバラの線が、ある日のある劇場にたまたま居合わせ、またそれぞれ別の線へと散ってゆく。
記録された映像も、ある日の公演を、ある特定の角度から切り取ったものに過ぎない。全ての公演を、出来うる限り多数の角度から記録したりしたら、一つの公演から無数の映像が分岐してしまい、無数の断片ばかりが増殖し、ますます全体からは遠くなる。
その事実は、演劇を観るという行為に、重要なものを決して見逃してはならないという、非常に重たい緊張を強いるし、自らが観たものについて話したり書いたりする時にはさらに、それ以上に重たい緊張を強いるだろう。しかし、その緊張は決して、間違ったことを言ってはならないというような、人を萎縮させるようには作用しないのではないか。その時にそれを観たのは私だけかもしれないのだという緊張は、しかし、それはどのみち全てなどではあり得ず、あらかじめ限定的であることが宿命づけられているのだ、という限定の内部にある。それはとても風通しがよいことなのではないだろうか。
ぼくがチェルフィッチュを観た時、隣に座っていた人(知人ではない)は、上演時間の半分くらいは、いびきをかいてすやすや眠っていた。その人はぼくとほぼ同じ場所にいつつも、文字通り、ぼくが観ていたのとはまったく異なる自らの「夢」を見ていたのだ。その人にとってチェルフィッチュの新作は、半分夢が混じったものとしてあり、また、そのようなものとしてしかあり得ない。本や映画のように、後であらためてきちんと見直すことは出来ない(記録映像を見たとしても、それはまた別の経験だろう)。そしてその人にとってのチェルフィッチュを、ぼくは決して経験することは出来ない(しかし、その人がそれについて何か喋ったり書いたりしてくれたら、その感触の一端を味わえるかもしれない)。
同じ映画を三回観るということと、同じ公演に三回通うということは(そもそも見ているものが同一だとは限らないのだから)まったく異なる経験であろう。そのたびに微妙に異なるであろう三回のパフォーマンスを見ることによってその人のなかで生まれた「一つの作品としてのその公演の印象」は、たまたまその人が見たのがその「三回」であったという偶発性に左右されてしまう。それは、それぞれの限定的な主観が絶対化されるということではなく、それはあらかじめ相対化されたものでしかなく、しかし、そうであるという限定の上で、それ自身としての精度が問われれば良いのだということだと思う。それがつまり運命ということであり、自らの運命をまっとうするということだろう。そういうのって、すごく自由なことなんじゃないかと、最近すごく思う。
やや飛躍するが、それこそが、皆に共通したものとして仮構される場や文脈から切り離された、個々の、あくまで限定されたものたちの歴史性である「系譜」を開くように思う。勿論我々は、ある共通の場や状況のなかにいて、それに把捉されていることは免れないのだが、それと同時に、場とはまったく異なる系譜のなかに生きている。そしてそれは決して一般化はされず、その系列に連なる者たちだけにしか見えない。運命は系譜とともにある。