●『ポニョはこうして生まれた--宮崎駿の思考過程』で印象的だったのは、宮崎駿が、自分の映画を観て子供がよろこんでくれるのはうれしいけど、家のなかで、DVDでそればかり観ているとなると問題だ、と言っていたこと(つまり、作品の「オタク的消費」は根本的に間違っている、と)。観ている時だけはよろこんで、終わったらさっさと忘れてしまうくらいがいいという感じ。作品が愛され、作品が残るのではなく、作品を観たことによって開かれた何かが、一人一人のなかに残ればよい。むしろ作品は忘れ去られ、世界への開かれた感覚、それをもったという経験が無意識のなかにでも残ることこそが重要なのだという感じに思えた。ぼくが、宮崎駿という存在に対して「大きさ」を感じたのは、そのようなところにだった。
飛躍した言い方になるが、(戦争中にアトリエでうつくしいモデルを描くマティスと同様)作品によって世界を変えるという野心というのは、(決してプロパガンダや布教や啓蒙という上から目線の形にあるのではなく)そういうところにこそあるのだと思う。
宮崎駿はやはり常に子供のことを意識しているようだった。それは勿論、今、子供である実在する具体的な多くの子供たちのことでもあるのだろうが、同時に、自分自身の子供時代であり、息子たちの子供時代であり、具体的に子供である誰かではない、抽象的で、匿名的、潜在的な、「子供である何か」という状態のことなのだと思う。例えば福永信のABCDたちのような。それに対して忠実であり、そこに向かってはたらきかけることこそが、世界にはたらきかけることなのだと考えているようだ。
宮崎駿は、自分は結局は空間に興味がある、空間こそが人に影響を与えるのだというようなことも言っていて、実際、自分のアトリエの隣の土地に、子供が自ら進んで通いたくなるような空間として、ジブリの社内保育園をつくるという計画を、「ポニョ」の進行と同時にすすめていた。この保育園がどの程度上手くいくのかは、けっこうあやういところもあるような気もするけど、でも、子供たちに直接作用する空間を実際につくるということを考えているところが面白いと思った。ここでも問題になっているのもおそらく、具体的な子供であると同時に、潜在的な「子供である何か」でもあるのだと思う。宮崎駿はけっこう荒川修作に似ているところがある気がした。
●インスタントの味噌汁を切らしていた。何か汁物がほしかったので、マグカップに、梅干しをほぐしたものと刻んだネギを入れ(要するにたまたま目の前にあったものだ)、味付けは塩こしょうで、香り付けにちょっとの醤油とオリーブオイルを垂らして(要するにうちにある全ての調味料だ)、お湯を入れて飲んだ。自分でも「いくらなんでもこれはねえだろ」と思っていたのだが、意外にもけっこういけていた。いや勿論、すばらしくおいしいというものではないが、予想していたよりも悪くはなかった。いいかげんな中華料理屋のチャーハンについてくる汁物よりはかなりまし。