●お知らせ。「美術手帖」5月号に、先月ギャラリーαMで行われた半田真規展のレビュー「作品はどこにあるのか ? 」を書いています。あと、これはまだ「そういう話がある」という段階で、どうなるかまったく分からないのですが、別の媒体で美術についてのレビューの連載をはじめるかもしれません。
ジュンク堂新宿店に、阿部和重×佐々木敦トークを聞きに行く。『ピストルズ』は読み始めたばかりでまだ第二部の半分くらいまでなので聞きに行くのはどうかとも思ったのだが、逆に言えば、『ピストルズ』以外の阿部和重の小説はほぼ読んでいるのだから、聞きに行ったっていいだろうと思った。
阿部和重がしゃべり出すと、事前にイメージしていたものと、その声、しゃべり方が大きくズレていたので軽い違和感を感じる(阿部和重の読者歴十五年以上だけど、ナマ阿部和重ははじめて見た)。しかし一度それを聞いてしまうと、実際に見え、聞こえてしまうことの強さによって、阿部和重の声としゃべり方はこうだと確定されてしまい、その前にもっていたはずのなんとなくのイメージは消えて、もう、どんなイメージを持っていたのか分からなくなってしまう(十五年の時間をかけてつくられたイメージが、実物の出現によってあっさり消えてしまうのだ)。で、この声、しゃべり方はすごく誰かに似ている、どこかで聞き覚えがあると、第一声が発せられてすぐに思って、二時間くらいのトーク中にずっとそれを感じ続け、それが誰なのか自分の脳内を検索し続けていたのだが、最後までついに分からないままだった。
話で面白かったのは、『シンセミア』を書いた時点で三部作の構想はほぼ出来上がっていて、『グランド・フィナーレ』が『ピストルズ』に含まれることも決まっていたのだけど、そのことは誰にも言えず、佐々木敦による『グランド・フィナーレ』に関するインタビューの時に、すんでのところでそれを言いそうになってしまった、とか、第三作目も物語は確定しているし細部のアイデアもかなり出てきているけど、書きはじめるのはまだかなり先になるだろう、とかいう話で、頭のなかには明確にあるものの、それはただ頭のなかにだけあり、それを誰にも言わないし(でもきっと、言いそうになったり、ちょっと言っちゃったりする)、実際にはまだ形にもなっていないままで保持されるという、そういう胸がもぞもぞするような「秘密」の時間を生きること(それを強いられること)こそが、(おそらく制作-執筆それ自体よりも生々しい)作家の生なんじゃないかと思った(メモやノートや資料は大量にあるのだろうけど、それがまた「秘密」っぽい)。常に秘密を持ち運んで生活し、秘密を通して世界を見る、みたいな。
おそらくその秘密の大きさと複雑さ、秘密に込められた(秘密を持ってしまうことによって強いられた)熱量の感触こそが、ぼくにとっての阿部和重の面白さなんだな、と思った。