●『ピストルズ』第四部「抱擁の歌」。三部が図式の暴走だとすると、四部は歴史の(歴史の読解の)暴走と言えるように思う。最初に単純な図式があって、それが反復され、細分化されて展開してゆく三部に対し、こちらは、様々な要素が、次々に強引に関係づけられてゆく(様々な要素が関係づけという行為によって小説内に呼び込まれる)という形で展開する。とはいえ、関係づけという行為は少しでもその飛躍のテンションが落ちろと、つじつま合わせ(つまり展開というより収束)のようにも感じられてしまうところもある。
図式の(悪ノリ的な)展開にしても、諸要素間の(強引な)関係づけにしても、ここで目指されているのは、様々にたちあがって(呼び込まれて)はざわめくそれらの諸細部が、最終的には相殺されて意味がゼロ(内容がない)に近づくことであるように感じられる。ある方向への力が生じると、それを打ち消す別の力がすぐさま生じる、という感じ。勿論それは、最初から意味がゼロだ(なにもない)ということとはまったく異なる。様々なざわめく力のポテンシャルが、ある一定方向に流れることなく、テンションを増大させつつもニュートラルな状態をずっと保っている、という感じ。そのような意味では、やはりこれは「抑制」的な作品なのだろう。
●『不実なる鏡/絵画・ラカン・精神病』(ミシェル・デヴォー)が面白い。ラカン理論のもつ潜在力はやはりすごいと思うのだった。以下の引用は、ひじょうに適切にセザンヌを記述していると思う。絵画と時間との関係についての考察としてもとても面白い。
セザンヌは事物、身体だけを描いていたのではなく、それとともに、そしてまずなによりも、それらを隔てている空隙を描いていた。空隙しか描いていなかったとすらいうべきかもしれない。個々の事物は、それを取り囲むもの、それを包囲する=輪郭づけるものによって不在として浮かび上がらされる。その包囲=輪郭づけはまるで空間恐怖からきているかのようである。おそらくセザンヌは、ある事物の形と色を決定するためには、彼の視覚をその事物にではなく、逆説的にも他の事物や山や空によって構成される背景に対して調整し、背景の形と色を調整するためにはそれと逆のことをしようとしたのではないだろうか。その結果、ある形態は閉じた単位になることは決してなく、中間に置かれるもの、つまりラカンのいうスクリーンになる。》
《隣接する事物は、この個々の事物を無として取り囲み、周辺へと眼差しを惹き寄せるのだが、こうして次にそれ自体が照準点になると、今度は自らの姿をくらせてしまうのである。この水平的で逃走的な魅惑のために次々と連続的に脱中心化される眼差しは、渦を巻くようにいつまでも延期される統一体として形と色を包み込む。いいかえるなら、セザンヌは、言葉の本来的な意味での表象=再現を行っているのではなく、際限なく引き伸ばされる執行猶予、つまり性急さ=沈殿=降雨というラカンの原理を文字どおり描きだしてくれるような絵画的表象の差延を演出しているのである。》
《現に置かれているタッチは、それ自体としてはまだいかなる具象的価値も有していない。それにもかかわらずこのタッチが自己を主張するのは、そのタッチが、絵画がやがて獲得するはずの色彩の体系に、横断的、先取的、想定的に関連づけられることによってである。まさしくこのためにこそ、画家は、表象=再現を先取りするその絵画的身ぶりに自らを委ね渡さなければならない。》