●『女教師N』(今岡信治)をDVDで。監督名が「いまおかしんじ」じゃないのは、これが2002年の作品だからだろうか。公開時のタイトルは、多分(間違ってるかもしれないが)『したがる先生 濡れて教えて』だと思う。シナリオ集『また、どこかで』に『ヒバリ』というタイトルで収録されているやつなのだと思う(本は読んでない)。
すごく面白い。まさにいまおかしんじという作品。一方で、他者や世界との軋轢を最低限に抑え、低い閾値で他者と関係をもち、一見自足しているようでいて実は常にもやもやしている人たちの関係があり、もう一方で、そのような人が独自の回路で超越的なものとの関係を開く姿が描かれる。ここで面白いのは、全体を貫く感情の低値安定の調子以上に、超越的な回路の独自な作動の仕方だと思う。
この作品のキモは、(自分が)盗撮された映像が、(自分を見つめる)超越的な視線へと転換するというところだろう。雲から滲み出す白い光を捉えたうつくしい空の映像と、狭いトイレの個室で着替えるところを撮影した粗い映像が結びつくことで、超越的な眼差しが構成される(盗撮映像ではカメラは地面近くにあり、極端な仰角で撮られているのだが、それが俯瞰的な空からの視線へと転倒する)。それ自体として卑劣な行為であり、美的にも粗い盗撮された映像が、現世的、現実的な関係を超出した、おおきなひろがりをもった視点を主人公にもたらす。それは同時に、主人公に孤立を促すことになる。ある時期、監視カメラの映像が、一種の現代的な無機質な客観性を象徴するものとして映画に多用された時期があったけど、この作品では、それがもっと複雑でデリケートで、説得力をもった形態となっている。
この映画では(人物が重複した)三組のカップルが性交を繰り返す。ひたすら性交が繰り返される映画を観ているうちに、今、誰と誰とがやっているのかがどうでもよくなってくる。つまり、別に誰と誰とがやっているのかということは大した問題ではないという空気が作り出される(彼らにおける関係の障壁の低さは、全裸でコインランドリーにいる男に、そこへやってきた女がスカートを貸すことで関係が生まれる、といううつくしい場面に象徴される)。彼らにとって誰かと性交することは自然な行為であり、彼らの困難はむしろ、そこにどのようにして距離を作り出すのかということになろう。一組のカップルでは、男性がとつぜん勃起できなくなるという密着的関係の亀裂への危機が、二人の間の(文字通り空間的な)距離を意識させると同時にそれを踏破するパンダのおもちゃによって回避される。彼らはそのような外的な「道具」がなければ関係における距離を意識できない。
いまおかしんじの作品では、性交の場面はたんにピンク映画というジャンルによって要請されたものに留まらない重要性をもつ。「誰と誰とがやっているのかは大した問題ではない」というのは「誰とでもやる」というのとは違って、ある愛着的な空気の緩い共有としてある。しかし、その緩さを維持しつつも、「でも、やはりほんとは、誰と誰とがやっているのかというのは決定的に重要だよね」という問題はどうしたって浮上してくる。摩擦や葛藤は、ドラマを生むまでには高まらないが、常にくすぶっている。性交の描写は、激しくはないが多様で無視出来ない感情が交錯している様の繊細な表現としてある。
このような関係の外にいるのが、主人公の女教師の生徒である(この坊主頭で大男で無口な生徒のイメージは、この後の『たまもの』のボーリングの玉男に直接的につながっているようにみえる)。彼は、距離をもって教師を見つめ、(触れるのではなく)コスプレさせて絵を描き、盗撮する(教師と生徒との場面では断絶を強調するように切り返しが多用される)。触覚的、密着的に関係する自分たちとは根本的に異質なこの生徒との関係(というか、彼の眼差し)によって、教師は密着した関係のなかからすこしずつズレはじめるだろう。触覚的、密着的な関係を拒否して孤立するこの男は、教師をモデルに絵を描きながら、死者の魂を地上に連れ戻すという盲目のヒバリの話を教師にすることになる。まるで、孤独なこの「見る男」にとっての希望は、死後に「盲目」となって地上に戻ってくるというところにしかないとでもいうように。
孤独な、盗撮する、「見る男」というのはいかにも現代的で紋切り型のイメージに聞こえるが、いまおか的な現実世界のなかでは基本的にこのような存在は成り立たず、この生徒が、人物たちの関係の外にいる、半ば非現実的なイメージとしてあらわれている点が重要なのだ。だから、この教師と生徒との関係は、『たまもの』の主人公とボーリングの玉男、『おじさん天国』の主人公とダイオオイカ、そしておじさんと夢の女、『えかるのうた』の主人公とかえるの着ぐるみ、『罪』の主人公とキリスト、との関係と同様のものなのだ。そしていまおか作品において、このような非現実的なイメージは、濃厚な死の気配によって現実と結びついている。この生徒もまた、死ぬ前から半ば死んでいるような存在なのだ。
生徒は死に、その葬式からの帰りに、教師は空を見上げ、雲から光が滲み出す様を見る。そして、帰ると、自分を盗撮したビデオが死者から送られてくる。ここで、空、ヒバリの話、盗撮映像が教師のなかでモンタージュされることで、ある超越的な視線が構成される。見られていないはずの自分の姿を写す映像は、生徒との関わりによって強い人称性、具体的な他者の気配(視線)と結びつき、しかしその視線の主が既に死者であること、そして生前の彼が半ば死者のような非現実的な存在(教師たちの現実-密着関係とは異質な存在)であったことで、そこから具体性(固有性、欲望)が漂白され、「誰でもない誰か」としての他者性が(他者の気配のなまなましさのみが)強調され、それがヒバリの話によってより身近に感じられるとともに具象的な形態を得て、空のイメージとも結びつけられ、空から滲み出る光のうつくしさが、その「自分を見ている超越的な誰かの視線」という感触にしっかりとした裏地を与えるだろう。
そしてそのような視線の成立によって、彼女は、ずるずると続いていた恋人との関係を自ら断ち切ることが出来るし、自分の意志で仲間たちとの距離を測ることが出来るようになるだろう。
●超越的な視線のこのような構成のされ方は何かに似ている、と観て思って、考えていたのだが、それが『星のしるし』(柴崎友香)のラストに似ているのだと思いついた。