●一つの例のように挙げてしまって大変に申し訳ないのだが、『私は猫ストーカー』という映画は決してつまらない作品ではないと思うけど、しかし、本編よりもDVDの特典映像としてついている「浅生ハルミンの猫ストーカー指南」の方が面白いと思ってしまう。本編を見終わった後にこの映像をみると、「なんだ、これでよかったんじゃん」あるいは「こっちのがいいんじゃん」と感じられる。つまり、この映画が、中途半端に劇映画として成立していることの必然性の弱さが、この映像によってみえてきてしまう。
浅生ハルミンの猫ストーカー指南」では、猫好きの原作者(浅生ハルミン)が猫に触れるために街を歩き回るところにカメラと監督、スタッフが同行する。それによって、猫を撮ることが街(空間)を撮ることになり(街-空間の、普段見えていない別の有り様が見えてくる)、また、街を撮ることが猫を撮ることになっている(街-空間とともにある猫の姿がみえるようになる)。その関係は緊密であり、そのリアリティは、やはり、俳優が猫好きの人を演じるよりも、本当に猫好きの人が街を歩いている方がずっと強いものになる。一方本編では、人間の側のドラマ(古本屋の夫婦の話や、主人公の恋愛の予感のようなもの)と、街に生息する猫の様子、あるいは街の空間そのものとの関係は、なんとなくふわっと繋がっているという以上の必然性は感じられない。
とはいえ、現実的には、「浅生ハルミンの猫ストーカー指南」は特典映像だから成り立っているものだと言えて、もし、これをもっと発展させたものを劇場にかけたとして、お客さんが観に来るだろうか、という問題はある。映画というのは、面白いお話があって、有名な俳優が出てくるもので、だからこそわざわざ映画館まで足を運ぶのではないか。だから、劇映画という「既にある(みんなが認知している)形式に収める」必要がどうしても出てきてしまう。しかし、実際に特典映像の「浅生ハルミンの猫ストーカー指南」を観た多くの人が、ごく普通に、本編よりもこっちの方が面白いと感じるのではないだろうか。だとしたら、その面白さ(それが面白いものである可能性や気配)が事前にちゃんと伝わるのならば、人は映画館へ足を運ぶのではないだろうか。とはいえ、それこそが(既に知っている「映画」とは違っても、「そこ」に面白いものであり得る可能性があるものがあるのだということこそが)、最も伝わるのが難しい。
結局、制作者の側も観客の側も、両者を等しく縛っているのは(だからそれは制作者側だけの責任ということでもないのだが)、映画というのはお話があって、有名人が出ているものだという、先取り的な定義(思い込み、刷り込み)であり、何々系みたいな勝手な(粗雑な)カテゴリーであり、それにつけられたいい加減なタグであろう。つまりそういうものこそが「権力」として作動している。実際に観てみれば充分に面白くても、「それは映画ではない(映画とはこういうものだ)」という思い込みは、あるいは「あー、そっち系ね」みたいな事前の決めつけ(容易なマッピング)は、人の行動や思考をものすごく(一見、円滑にさせるようにみえる形で)強く拘束する。いや、それは、今、実際に見えているものさえも曲解させるほどの(暴力とさえ言い得る)力をもつだろう。
だから、重要なのは、定義すること、カテゴリー化すること、マッピングすること、タグをつけることで「わかりやすくする」のではなく(一見親切にみえても、それらはすべて、商品流通管理者の思考-都合だ)、それを外すことの方であり、そこから外れたところにあるものの面白さの手触りを、具体的にひとつひとつを指摘し、吟味することだろう。その、ひとつひとつの感触は、腑分けされた一般的な括りのなかからは決して見いだせない、その都度あらためて訪れる、新しい、個別のものだ。そこに触れることではじめて、あらかじめ商品につけられたタグ(これはこのように消費しろ、という先取り的なメタメッセージ-命令)とは別の系列-関係へと作品が開かれる可能性が生まれる。そのような思考、そのような行動、そのような言説こそが、人を自由にするのだと思う。これは抽象的なことではなく、具体的に、人の行動を変え、人の知覚や経験を変え、つまり人の生の有り様を変えるはずなのだ。
●9日のABCのトーク佐々木中が、「現代」について語るあらゆる言説が言う「現代」とは結局「直近の過去」でしかなく、つまり「現代はこうだ」という言説は、「(直近の過去に)起こってしまったことに従え」と言っているに過ぎない、故にそれらはすべて官僚主義的だ、ということを言っていた。既に完了してしまったことから逆算して未来への行動を規定するのではなく(つまりそれは、結末を決めてそこから逆算して作品をつくるのではなく、という意味でもある)、繰り返し、その都度、未だ起こっていない何かに対する賭けとしての「次の一手(次の一行)」を絶えず繰り出してゆくように思考し、行動しろ、とアジっていた。