新百合ヶ丘の川崎アートセンター、アルテリオ小劇場で、FICTION project mtu/watu vol.1『世界のはじまり』。すごい面白かった。この面白さをどう言えばいいのか。例えば、ぼくの座っていた席の後ろにおばさんの二人組の客がいて、劇の最中けっこう頻繁に「観たこと」についての感想をお喋りし合っていて、後ろからいちいち「あらー、あの人死んじゃったの」とか「あれ血なの、刺さってるの」とか「あのしゃべり方って、私みたいじゃない」とか「あの子、裸で寒いわよね、風邪ひかないといいけど」とか聞こえてきて、こういうのは普通はちょっとムッとするのだが(もしチェルフィッチュを観てる時にこういう人がいたらかなりイライラすんのではないか)、この作品はそういうのを全然受け入れているというか、今、見えていることの感想をその場でそのまま口にしちゃっても、それが周囲の人に聞こえちゃっても、そういうのまで含めてここで起こっていることだという、そういう懐の深さというか、風通しの良さというか、太っ腹さを感じさせる時間、空間が成立していた。
太っ腹と言えば、今、ここで起こっていることを観ることが出来るのは、今、ここにいる人だけなんだ、ということはなんと贅沢なのかとも強く感じた。いや、お客さんは沢山入っていたのだが、そういうこととではなくて。贅沢さというよりも、惜しみ無さというべきか。誰が観るのか、誰に(どの筋に)うけるのか、届くのかということではなく、とにかく「何が出来るのか」、ということだけが問題になっているような感じ。作品は観客に向けて作られるのではなく、世界そのものに捧げられるもので、それは(誰が観ようと観まいと)惜しみなく捧げられなければならない、と。これだけのことが実現出来たということこそが重要なのであって、誰が観ているかが問題ではない。観客はそれをちょっとお裾分けしてもらうだけで、別に誰もこれを観なくても成り立つのではないか。というか、この劇をつくっている人たちが、既にそれぞれにお互いを観ているのだから、もうそれだけで十分な観客を持っているのではないか。これは決して自己満足とか当事者たちだけに閉じているということではない。実際、この劇の異様なまでに開かれた感じはなんなのだろうとと思うくらいだ。観客が必要無いんじゃないかと思われるくらいに開かれている(世界に開かれていることと、「世界市場」に開かれていることとは全然違う)。そういう場所に、たまたまたちあうことが出来たのは、なんて幸運なのかと思う。
この作品は、時間をかけて練り上げてつくられたという意味では作品であるだろうけど、訓練された俳優だけではなく、半ば偶然のように集まった人たちによってつくられている(らしい)から、再現性がない。これだけ面白いものが、たった二回しか上演されないのはなんとももったいないと思うのだが、しかし、何度も上演したら、きっとやっている人たちの集中がつづかなかったり、飽きてしまったりするので、二回くらいでちょうどいいのだろう。それをもったいないと感じるのはいやしい貧乏性で、たった二回しかもたないことを肯定するそのいさぎよさこそが、この作品の面白さの根幹を支えているのではないか。
観客はよく笑うし、ぼくもかなり笑った。しかしそれは、ネタ振りがあってオチがあるとか、「ここ、笑うところですよ」という分かり易い指標があるところで笑うのできなく、そこで起こる出来事のとんでもなさに、突然、どうしようもなくおかしくなり、もう笑うしかないという感じて笑う。だから、観客の一人一人が笑うポイントが違っていて、散発的でタイミングのずれたまだらな笑いが、ぱらぱら起こるという感じだった。笑うポイントを無意識のうちに合わせてしまう、というのは最悪に鬱陶しいことだ。
ぼくが今まで観たFICTIONの作品では、人や物やイメージや出来事が、その場にどかんと、何の保護も後ろ盾もなく吹き晒しに晒されてあって、そのどうしようもなさが意味もなく面白いというような開かれた感じがある一方、ある局面でそれが急速に「吹き晒しにある」という「状況の説明」に流れてしまって、鬱陶しいというか、息苦しくなってしまう傾向もあると感じていた。しかし今回の作品では、息苦しくなるところがほとんどなかったように思った。いや、すべての場面がキワキワだとも言えるのだが、キワキワであっても決して向こう側には倒れない力が働いているというのか。この作品は「意味」を考えようとするとドツボにはまると思う。社会的な問題としてあつかわれがちな題材ばかりを取り上げながらも、決してそっちの方へは転ばない力業で、世界の方へと引っ張り上げているように思う。
上演が終わって時計を見ると二時間以上時間が経っていた。観ている間は、長いのか短いのかよく分からなかった。形式的に整えようとするのならば、おそらく、切ってもいい場面や、もっと詰めた方が良い場面もあるように思う。しかし、そういう問題では全然ないのだとも思う。上演中、ずっと集中を強いるわけでもなく、かといって、だらだら続くのでもない、適当に隙間のいっぱいある感じの時間。流れ、展開するというより、粒の揃わない個別の時間が明滅するように移行する。後ろから聞こえてくるおばさんのお喋りが決して邪魔ではないような風通しのよい感じは、この時間の有り様のためでもあると思った。
●唯一疑問があるとすれば、ラストは岡林信康ではなく、ブタ男の歌でもよかったんじゃないか、と。