●『オカルト』(白石晃士)をDVDで観た。最初の十分か十五分くらいはとても興奮した。ホラーを撮るのにこんなやり方があったのかと驚くと同時に、これからどんなになすごいことが起こるのかとドキドキした。
で、こちらのその興奮をうっちゃるように、展開はすぐさま、被害者の一人である男の「うんこみたいな人生」を追っかける、ゆるゆるのフェイクドキュメンタリーとなる。「なんだこの展開は ! 」と思いながらも、それはそれで面白い。ドキュメンタリーというものはつまり、「カメラが撮影している世界」のなかに「それを撮影するカメラ」が「存在している」ということが明確になっている「形式」であるに過ぎない。この映画に出てくる全ての人物は、そこにカメラがあることを意識しており、カメラによって撮られていることを知っている。勿論、通常の映画でも俳優は撮られていることを知っているのだが、知らないフリをしている(カメラも存在しないフリをしている)。だから逆にいえば、この映画の人物たちもまた、知っているフリをしているに過ぎない。もし、人物がカメラの存在を知らない風に行動していたとしたら、「カメラが隠されている」ということが、ちゃんと示されなければならない。それがドキュメンタリー風の「形式」であり、しかしそれはたんに形式の問題であり、それは、そこで撮影されていることがフィクションでないことを少しも保証しない。むしろ、そのもっともらしさこそが(もっともらしさを演じているんじゃないかという疑いが生じるので)胡散臭い。それはドキュメンタリーがもともともっている胡散臭さであり(例えばヤコペッティとか)、それは、幽霊や超能力が写っている映像の胡散臭さ(それが「真実」であること、つくりものではないことの証明が困難であること)ともつながる。つまり、ホラーというジャンルとドキュメンタリーという形式は、その胡散臭さによって通底している。そしてホラーにおいては、ドキュメンタリー的な真実らしさよりもむしろ、その胡散臭さこそがリアルなもの(怖さ)としてある。この映画が中盤までは面白いものであるのは、そこに起因すると思う。
でも、最後まで観たら、これでは駄目だと思った。物語が動き出した後の中盤以降がまったく面白くないのだ。この映画は、自分自身の開いた可能性に気づかないまま、途中から間違った方向へ行ってしまったのだと思う。ドキュメンタリー的な形式が必然的にまとうノイズのような胡散臭さこそが(明らかに胡散臭いのだが、それをインチキだと必ずしも言い切れない、むしろ、言い切りたくない、と感じてしまうことが)この映画の面白さであり、リアルさだったのに、物語を語りはじめようとした途端に、物語のリアリティを、ドキュメンタリー的形式や、同時代的な雰囲気のもつ「もっともらしさ(真実らしさ)」の方に依存させてしまうのだ。つまり、偽物であることのリアリティが、リアリティの偽物に転換されてしまう。それではすべてが台無しだと思う。
しかし、作品としては駄目でも、可能性としてすごく多くのものがここには含まれているように思う。
●以下は、この映画の最初の十分くらいのすごさについて。
この『オカルト』という作品全体が、架空の通り魔殺人を追った架空のドキュメンタリーという形になっている。通り魔殺人の現場にたまたま居合わせてしまった観光客のビデオカメラに捉えられた事件の映像(という設定の映像)があり、その映像を作品の一部として取り込んだ、通り魔事件についてのドキュメンタリー(という設定の映像)がある。まず、観光客のビデオには、友人達がはしゃいでいる様が写っており、観光地の風景が写っており、友人達とは無関係の他の客たちが背景に写り込んでいる。そしてその後に、突然起こった事件が写ってしまう。次いで、事件の現場で取材するカメラによる映像がある。そこには、事件が起こった数年後の同じ場所の風景が写っており、事件を撮影してしまった人がインタビューに答えている姿があり、その背景には、事件時の映像と同様に無関係な観光客たちも写り込んでいる。
異なる時間の同じ場所、同じように背景に写り込む観光客たち。その一見区別のつけがたい映像がモンタージュされる。そこには複数の時間が畳み込まれている。最初のビデオには事件の前と、事件そのものが、次の映像には事件の後の「その場所」が映っている。しかしそれだけではない。インタビューの内容に対応して、最初のビデオ映像が部分的に拡大されたりして加工されつつ、反復的に何度も挿入される。犯人は、事件前に友人達とはしゃいでいる映像の背後に写り込んでいた青いシャツの男であり、その同じフレームには、犯人に刺された人のなかで唯一生き残った男性も写り込んでいる。二人とも、事件の前の姿だ。彼らが事後的な映像の加工によって、スロー、ストップ、拡大されてフレームアップされる。つまり、再度呈示される「事件の前」の映像は、事件の前を寸分違わず正確に再現しつつも、それは事件の後になって読み直された「事件の前」である。それは、映画の冒頭にあって、映画の観客にとっては事件そのもののように唐突に、そして一体何が起こっているのか不鮮明なままいきなり与えられた映像の、そっくりそのままの反復でありながら、しかし異なる意味をもって呈示される。
事件が起こる前には、たまたま同じ場所に居合わせているだけで互いに意識もしていない、無関係であった、友人達、犯人、生き残った男、刺されて死んだ人たちは、犯人の犯行によって、一つの「通り魔事件」という事件によって関係づけられる。この関係づけこそが呪いであり、犯人によって暴力的に関係づけられてしまった人々は、二度と無関係には(事件に出会う前には)戻ることが出来ない(殺された人は生き返らない)。しかし、映像には、無関係なままの姿が、その「前」の時間が記録され、そのまま再生される。未だ関係づけられていないままの、友人達、犯人、生き残った男、他の観光客が、無関係なまま、同一のフレームのなかに、偶然に、しかしその偶然によって事件が予告されてしまっていたかのように、写り込んでいる。無関係なセリーを、無関係なままで(無自覚に)一つのフレームに収めてしまうビデオカメラは、まるでそれ自体が、事後的にみれば、無自覚なままで宣言された犯行予告であるかのように(事後的に)浮上する。
自らが刺し殺される危険のなかにいながらカメラを回しつづけた女性は、ドキュメンタリーのインタビュアーに「なぜだか、これを撮っておかなければならないと感じたから撮った」と言い、ドキュメンタリーの制作者もまた、「なぜだか、この事件について記録しなければならないと感じている」と言う。そして、犯人に刺されて唯一生き残った男は、「犯人から何かを託された」という気持ちを持つ。つまり、たまたまそこに居合わせたという偶然から、それが何か大きなものの意志による運命であり、事前に決定されていた何かしらの使命を背負わされていたかのような感覚を得ているのだ。だが、そのような感覚はそもそも、事件の前のまだ「無関係な時間」に、たまたま同一のカメラの同一のフレームに捉えられてしまっていたこと、そして、その映像を事後的に再生し、解析することが出来てしまうことによって生まれてしまうものだと考えることは出来ないだろうか。
映像は、因果関係からすれば本来無関係であるはずのものを、同一のフレームに収めること、あるいは無関係ないくつかのカットをモンタージュすることで、あたかもそこに事前に(モンタージュよりも前に)関係が(関係へと至る運命が)存在していたかのように感じさせてしまう。いわば、関係の予感を事後的に捏造することが出来てしまう。それは、そこに過去が、(記憶のようには)現在から書き換えることの出来ない客観性をもったものとして、正確に保存され、正確に反復されるという事実によって裏打ちされる。「これは運命だ、その証拠に、この時は何も知らなかったのに、すでにここに一緒に写り込んでしまっているではないか、これはしるしなのだ」と。
『オカルト』の最初の十分くらいが衝撃的であるのは、撮影された映像が、本来事後的にしか確認できないはずの運命があたかも事前に成立していたことの「証拠」であるかのように作用してしまうこと(しかしそれは、決して過去そのものではなくその反復であることによって意味がかわってしまっているのだが)、そのように感じることの抗いがたい強さを、そのモンタージュによって示してしまっているからではないか。それは実は、男性の体に刻まれた「しるし」以上に強いしるしとして作用しているはずなのだ。つまり『オカルト』(の冒頭)においては、観光客が無自覚にカメラで撮影していたことそれ自体が、通り魔殺人と正確に同等な行為(事件)となって、その事件を裏打ちしてしまっているのだ。
●このことは、シャマラン的な主題を共有しつつ、その表現を超え得る可能性をも示しているように思われる。